森のかけら | 大五木材


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 ところで前から、能登のこの地で『能登ヒバ』以上に気になっていたものがありました。それは四住さんの会社にもなっているその地名『鳳至(ふげし)』。なんせ、「鳳(鳳凰)が至る」って事なんですからさぞや高貴な伝説のある地に違いない!初めて四住さんとお会いした時には読むことすら出来ませんでした。いつかこの地名の由来を訊かねばと思っていたのですが、今回ゆっくりお話しする機会があったので、長年の謎を訊いてみたところ・・・「由来なんて考えたことなかった」。

 

ええ~っ!つまり由来は知らないし、生まれた時からそうなんで気にしたこともなかったと言われるのです。まあ確かに先祖代々その名前をごく普通に使っていれば、記号のような存在になって深く意味など考えたりしないものかもしれません。後からその言葉が入ってくるから興味や関心が湧くのかも。私も生誕地の由来は調べた事もありませんが、松山に移り住んでから地元・平田町の由来が妙に気になって調べました。由来は辺り一帯が平らで広い地形であったからというごく平凡なもの。

 

ならばと自分で調べてみましたが、ネットや書物をいくら調べてみても「不明」。世の中には同じようにこの名前の由来にご興味をお持ちの方も多いようで、何人もの方がその謎解きに挑まれて独自の説を打ち立てられているものの、核心部部は想像の域を出ず。その中で私がもっとも共感を抱いたのは以下の説。鳳至木材から9キロほど離れところに、櫟原北代比古(イチハラキタシロヒコ)神社という由緒ある神社があって、その昔(1186年)源義経が北国下落の時参詣したとか。

 

石川県指定天然記念物にも指定されている神社で、かつて鷲嶽八幡宮(ワシオカハチマングウ)と言われた時期もあったそうですが、その後現在の社号に戻されたそうです。鷲嶽という名前は、この地に鳳至比古(フゲシヒコ)という神様がいて、民を苦しめる悪鳥大鷲を退治し、その骸を埋めて現在の社叢が出来たと言われています。鳳至=「オオトリに至る」と考えれば、その大鷲がオオトリだったのかもという説。大鷲は冬になると南下してシベリアから日本にやって来ます。

 

日本で見られる猛禽類としては最大で、大きなものになると羽を広げると2.5mにもなるそうで、銃の無い時代には恐らくこの巨鳥のなすがままでさぞ恐怖が募ったことでしょう。ただ一方で、鳳凰は聖天子の出現する時この世に現われる縁起のいい瑞鳥とされています(鳳が雄で凰が雌)ので、かつて能登にも生息していたもうひとつに珍鳥・朱鷺(トキ)の可能性も考えられています。昭和30年代には能登では絶滅したそうですが、空を舞う白い鳥の姿は神々しく見えあたのかも。

 

非常にロマンを感じさせる説で面白いのですが、一方では『もともとフゲシと呼ばれていた地名に〔フゲ+シ〕という分析を加えて、そのフゲに「鳳」を、シに「至」を宛てたことによるもので、そのような「好字」を選んだ結果として、この地名に《鳳が至る》という意味が生じましたが、それはあくまでも漢字の音を借りた表記に後から意味を持たせたに過ぎない』という冷静かつ残酷な見解もあるのですが、それでは男のロマンが台無し。真偽は分かりませんが断固大鷲・朱鷺説を支持!




 石川県の話を初めて20日目ですが、実際には石川県で動き始めておよそ4時間が経過したところ!このままのペースでいけば石川の旅の全貌を伝えるのに2ヶ月ぐらいは必要になりそうなので、さすがにここから多少はスピードを上げていくつもりですが、心に残る旅だったのでスルーしてしまうには勿体無くて勿体無くて。『能登ヒバ』の原木市場を見た後は、四住さんの会社・鳳至木材に移動して能登ヒバの製品を見せていただいくのですが、その前に食事をしようということに。

 

能登は、能登半島の北岸に位置し、古くから港町として栄えてきた歴史があり、輪島の朝市が有名ですが、新鮮な海の幸に恵まれていて、寿司も有名。四住さんの会社の近くの寿司屋さん、寿司処 伸福さんで能登の旬の魚介類を堪能させていただきました。地元の牡蠣も半端ではない大きさ、肉厚でプリプリしていて美味でした。ここで食事をしながら四住さんと村本さんにいろいろ能登や輪島の話を伺ったのですが、その地の歴史や文化を知ることもその地の木や森を知ることの第一歩。

 

ということでなるべく地のものにも挑戦しておかねばと思い、有名な『魚醤(いしる)』の味見をさせていただいたのですが、もともと魚介スープとかは得意でない私の「お子様舌」には、ちょっと味が濃厚すぎました。能登はその地理的条件ゆえ、古くから日本海側の物流の要所として繁栄してきましたが、それは江戸時代の「北前船」に依るところが大きいようです。江戸時代に鎖国が行われていた当時でさえ、能登では海外との交易もあって人々の暮らしは今では考えらえないほど豊かだったとか。

 

 かつては花街もあったそうで、往時の繁栄が偲ばれます。能登ヒバもその北前船によって能登にもたらられたモノのひとつですが(最近の調査ではもともと能登にもその種は存在していたとされていますが)、当時は禁木として厳しく管理されていた『青森ヒバ』が当地では環境に順応してうまく根付いて成長した事と、その名を秘するための隠語として『档(アテ』と呼ばれるようになったのです。その档の字も最初は読めませんでした。全国いろいろな産地を廻ると新たな出会いがあります。




能登ヒバ』はその生い立ちの特殊性もあって、非常に私好みのマニアックな木のひとつなのですが、なにぶん産地が遠いということと、愛媛での知名度がほとんど無いなどの理由で、愛媛の現場で私が実際に使ったことのあるのは内装材のみ。フローリングやパネリングの形状に加工されたものは、今までにいくらか取り扱ってきました。その頃は四住さん鳳至木材製の商品ではありませんでしたが、それまで愛媛での使用実績がほとんど無い樹種だったのでいろいろトラブルもありました。

 

かの地(能登)では、十分に乾燥もされているといっても、そこは鉛色の空が支配する湿度の高い地域のこと。乾燥機から出た段階で再び湿気の多い大気に晒され、当地の気候に馴染みながら安定していくのだと思います。それを地場(能登や金沢)で使うには、材にとってもそれが最適なコンディションだと思うのです。ところがそこから県外の温暖な地域、それこそ愛媛なんかに送られると、湿度の高い能登で安定していた能登ヒバも劇的な環境の変化に戸惑いながら恐縮、いや収縮

 

皮肉なものというか、地域限定の材がそこを離れ全国区へなろうとする時には必ず通らなければならない通過儀礼みたいなものなのですが、愛媛だけでなく、能登ヒバを使ってみよう~!と張り切ってパイオニアとして取り組まれた全国の新しいもの好きは、恐らく誰しも大なり小なり痛い目に遭っているのではないかと思います。私は若い頃に、同時期に全国のいろいろな木を使ってみようと、取り寄せては販売したのですが、能登ヒバ信州カラマツにはかなり強い洗礼を受けました。

 

20160628-3それは、産地の問題というよりはこちら側があまりにも無知であったために起こったトラブルで、いい気になって木を建材感覚で捉えてしまった私の浅はかさと経験の無さ。遠方の珍しい木を持ってくれさえすれば面白がって売れると考えた、若さゆえの暴走でした。その地域にしか育たない木が、なぜその地域にしか育たないのか、適者生存の考えすら分かっていませんでした。今思えばその時の痛い経験が、私の血となり肉となり地域材を考える基礎となってくれてはいるのですが。

 

20160626-5その時はまだ村本さんや四住さんとは出会ってもいませんでしたが、能登ヒバが全国に知られるようになったお話を伺うと、やはりいろいろとご苦労があったようです。温度差による乾燥収縮やねじれなどによってクレームや返品の雨嵐と、私とは比較にならないほどの大火傷を経験されたよう。しかし、その対応によって品質は改良され、乾燥精度も飛躍的に向上し、今は安心して使える内装材になりました。ひとつの樹種が認知されるようになるまでには秘められた多くのドラマがあるのです。




能登ヒバ』については、以前に『今日のかけら』で6間日かけて全身全霊をかけて書き切りましたので、あまり付け足すことが無いのですが、その時に困ったのが、能登ヒバの原木の手持ち写真が少なかった事。思えば初めて能登に行った頃は、まだ周辺でもデジカメでパチパチ写真撮るって環境ではありませんでしたし、一応私も一眼レフのカメラは持って行ってものの、フィルムでしたからそうおいそれと連写もできなかったため、今と比べると写真そのものが圧倒的に少ない~。

 

 今はデジカメで連写も含め、日に何百枚も写真を撮ることもあって、整理が追い付かないほどに画像が溢れていますが、一ヶ月に数万円にも及ぶフィルム代+現像費を払っていた当時から考えるとまさに隔世の感があります。今は瞬時に画像の確認も出るため、バンバン写真を撮って大量の画像を保管していますが、あまりにもカメラに頼り過ぎて、ついファインダーを覗くことばかりに心を奪われて、実際にその場で木に触ったり、まじまじと観察出来ていなかったりと反省も多いです

 

まあそれでも目の前で木を見てしまうと、ついカメラに手が動いてしまうのです。特にそれが遠方での出会いとなると、次はいつ来れるか分からないからと、余計に撮影にのめり込んでしまうのです。いずれブログで取り上げる時に、こういう角度の写真は欲しいとか、違う画角の写真も欲しいとか、純粋な材木屋とは違う視点で見てしまう癖がすっかり身についてしまいました。ここは輪島の原木市場で、そのほとんどが能登ヒバで占められていましたが、その多くには「鳳至木材」の木札が。

 

日光に晒されて表面が銀灰色に日焼けしてしまっていますが、ひと皮剥けば能登ヒバの黄白色の艶やかな表情と香気が蘇ります。この写真でも分かるように能登ヒバにはねじれながれ成長するという特性があるため、丸太の表面にも深い溝が刻まれるものの能登ヒバは、大きく「クサアテ」(比較的軟らかく造作向き)、「マアテ」(堅くて構造材向き)、「カナアテ」(幻の高級品種)の3つの品種に大別されるそうで、それぞれ材の特徴に合わせて用途が使い分けられます。続く・・・




久しぶりにお会いしたこと四住さん鳳至木材 専務取締役)は、能登ヒバの魅力を伝える伝道師として、やはりレッドキングのごとく最強でした!私が木青連日木青に出向した際(四住さんは当時、日木青の副会長を務められていました)に初めてお会いしてから、お話しさせていただくようになったのですが、その後何年経ってもこうして気軽にお話しさせていただきお付き合いができるのは、まさにそれこそ木青連の魅力であり醍醐味。全国に拡がるネットワークに感謝、感謝です。

 

20160626-2四住さんお会いするなり挨拶もそこそこに、お乗りになっていた車からいくつもの能登ヒバグッズを出されて、それを私に渡していただきました。車を覗くと、車中には能登ヒバ関連グッズが山盛りに積み込まれていました。これで1週間のうち、数日は金沢市に行って営業活動されているそうです。以前にお話を伺った頃は、能登ヒバの製品を同業の卸屋さんに卸されていらっしゃいましたが、現在は工務店や設計士などの小売に販路を変更されたそうで、営業活動に余念がないようです。

 

 上の写真は、能登ヒバを圧縮加工して作られたボールペン。愛用されていらっしゃるようです。自分が売り込もうとするモノの一部やその加工品を身に着けられる幸せとその矜持。能登ヒバは、輪島固有の木で石川県の県木でもありますが、能登ヒバの事を熱く語られる四住さんを見ていると、そういう特別な木があることが格別羨ましく感じました。いただいた能登ヒバグッズのひとつがこちらの、『能登ヒバの純粋水』。能登ヒバのおが屑や木屑を水蒸気蒸留して抽出したものです。

 

20160626-4ペットボトルに入っていますが飲み物ではありません。この純粋水をグラスに1、2杯ほどお風呂に入れると途端に浴室が能登ヒバの香りで満たされ、森林浴が出来るというもの。鼻腔をくすぐる爽やかな香りを持つヒバならではのまさにモッタイナイの結晶。能登ヒバだけでなく、青森ヒバでも同様の商品が作られていて、弊社でも青森県の青森ヒバ工場から購入して販売もしていました。この香りに慣れていない方は、キャップを開けた途端に辺りに溢れるヒバの芳香に驚かれるはず。

 

この純粋水以外にもアロマなど、能登ヒバの材や香りを持て余すことなく様々な商品が開発されていました。それらは四住さんのところ(鳳至木材)ですべて商品化されているというわけではなく、周辺の異業種の方々が、『能登ヒバを介し、人や環境にやさしい<衣・食・住>関連商品を開発、エコ活動を通して、能登の自然を守り育て地域活性化に努め活動する』という目的に向かってそれぞれの持ち味に合わせた商品を開発されています。その素材の多くは四住さんが提供されています。




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