★今日のかけら・#034 【木曽桧/キソヒノキ】 ヒノキ科ヒノキ属・針葉樹・岐阜産
私がこの会社に入社した当時、つまり今から20数年当時は、まだ無垢材に覚醒していなかったため、合板などの新建材もそれなりに扱っていました。以前は会社として建売住宅まで手掛けていたこともあって、倉庫の中にも木材に交じってユニットバスや洗面台なども沢山ありました。私自身は、まだこだわりどうこうよりも木材屋の仕事のなんたるかすら分かってなかった状況でしたので、言われるがままに注文のあったものを運び販売するというただの肉体労働の日々でした。
そういう日々の中、それなりに建材類も販売してはいましたが、取扱いの規模も少ないこともあって、どうしてもカタログ販売の建材に仕事の面白さや妙味を見出すことが出来ませんでした。肌に合わないという感じで、次第に建材の扱いが減少して、気がつけば倉庫の中にはコンパネすら1枚も無くなっていました。その後、無垢材の底なし沼に両足ともにどっぷり浸かっていくことになるのです。そのことについて今は微塵の後悔もないどころか、よくぞ舵を切ったものだと。
さて、その舵を切る前の頃の話ですが、その頃はわが社の主役は檜(ヒノキ)の柱でした。しかも俗に化粧材と言われ和室などの真壁に使われる高級な柱です。いまや床の間のある和室は風前の灯ですが、今から25年ほど前は必ず1軒につき1室は付き物で、大きな家になると8畳の続き間も珍しくありませんでした。弊社のようなところにさえ、1月に1度は鹿児島からわざわざ欄間屋さんがトラックに高価な彫刻欄間を積み込んで売り込みに来ていたほどですから。
欄間を取り付けるには和室の続き間が必要ですから、和室の減少とともに欄間も激減していくのです。しかし当時は、わざわざやって来ればお付き合いにと、欄間を3、4本も買っていましたが、それとてすぐに売れるぐらい欄間も和室も需要があったのです。欄間は8畳続き間に1組ですが、化粧柱の場合は最低でも10数本必要になります。当時は化粧面が無節の場合、1面1万円程度が相場でした。それが3面、4面化粧ともなれば数倍の価値がつくこともあり、まさに大トロの値打ちもの!
昨日の続きです。そういった大トロの商品がほっておいても梱包単位で売れていた時代でしたので、今とは隔世の感がありますが、当時はそれが普通でした。しかし結局は、何の努力もせずに売れるというその甘えの構図が、のちに自分の首を絞めていくことになるのです。弊社の倉庫にもヒノキ柱の化粧柱がところ狭しと並べられ、わが世の春を謳歌していました。今やバブルの華やかな賑わい懐かしさとともに、永遠に戻ることのない光景として私の脳裏の中に刻まれるばかり・・・。
私にとって「桧の化粧柱(という価値観)」は非常に幸福な出会いだったと思います。なにしろ105㎜角の柱1本が、4,5万もの価値がついた時代ですので、桧の柱さまさまという感じで、木の事がまだ何も分からない素人同然の私にとっても、「材木屋ってなんて楽な仕事なんだろう」と大きな誤解を与えてくれたものです。それから急転直下、かつての花形・桧の化粧柱は厳しい冬の時代を迎えるわけです。その暴落差は一層私の桧に対する思いを特別なものしたのです。
ひとつの材の価値の頂点と末端を味わった者として、複雑な思いがあります。同じ4面無節の桧柱が今そこにあったとして、その価値は今と25年前を比べると雲泥の差があります。材質は同じと仮定したとしても、価値にそれだけ開きがあるというのは、桧の無節の柱にどれだけ価値を求める人がいるかという点につきます。ものの価値は需要と供給が決めるとはいうものの、それは絶対的な需要があってこその話。和室という需要がなくなれば、求められない商品になるばかり。
最近この仕事に就かれた若い方にとっては、桧の化生柱についてそれほど深い思い入れは少ないのではないかと思います。先日、相当久しぶりに桧の4方化生柱の注文があり、倉庫中を探し回り何とか見つけたのですが、何だか懐かしい旧知の友に再会したような複雑な気分でした。よくぞ残っていてくれた!恐らく今後も劇的に化粧柱の需要が回復することは少ないと思われます。むしろ節のある材を化粧として使う需要は増えてくるのかもしれませんが。明日に続く・・・。
昨日の続きです。そういった大トロの商品がほっておいても梱包単位で売れていた時代でしたので、今とは隔世の感がありますが、当時はそれが普通でした。しかし結局は、何の努力もせずに売れるというその甘えの構図が、のちに自分の首を絞めていくことになるのです。弊社の倉庫にもヒノキ柱の化粧柱がところ狭しと並べられ、わが世の春を謳歌していました。今やバブルの華やかな賑わい懐かしさとともに、永遠に戻ることのない光景として私の脳裏の中に刻まれるばかり・・・。
私にとって「桧の化粧柱(という価値観)」は非常に幸福な出会いだったと思います。なにしろ105㎜角の柱1本が、4,5万もの価値がついた時代ですので、桧の柱さまさまという感じで、木の事がまだ何も分からない素人同然の私にとっても、「材木屋ってなんて楽な仕事なんだろう」と大きな誤解を与えてくれたものです。それから急転直下、かつての花形・桧の化粧柱は厳しい冬の時代を迎えるわけです。その暴落差は一層私の桧に対する思いを特別なものしたのです。
ひとつの材の価値の頂点と末端を味わった者として、複雑な思いがあります。同じ4面無節の桧柱が今そこにあったとして、その価値は今と25年前を比べると雲泥の差があります。材質は同じと仮定したとしても、価値にそれだけ開きがあるというのは、桧の無節の柱にどれだけ価値を求める人がいるかという点につきます。ものの価値は需要と供給が決めるとはいうものの、それは絶対的な需要があってこその話。和室という需要がなくなれば、求められない商品になるばかり。
最近この仕事に就かれた若い方にとっては、桧の化生柱についてそれほど深い思い入れは少ないのではないかと思います。先日、相当久しぶりに桧の4方化生柱の注文があり、倉庫中を探し回り何とか見つけたのですが、何だか懐かしい旧知の友に再会したような複雑な気分でした。よくぞ残っていてくれた!恐らく今後も劇的に化粧柱の需要が回復することは少ないと思われます。むしろ節のある材を化粧として使う需要は増えてくるのかもしれませんが。明日に続く・・・。
この話は、本来『今日のかけら・桧篇』として書くつもりだったのですが、そのために私と桧の出会いの事について少し触れようと思っていたらついつい話が感情的になり横道に逸れてしまいました。まあそれぐらい桧は私にとっても特別な存在だったという事です。あえて過去形にしたのは、今私にとっての桧は、建築材、化粧材としてではなく、全国有数の生産量を誇る豊富なクラフト資源として見えているからです。当然建築材としても利用させてもらっているのですが、
それよりももっと高い価値のあるものに変えることが出来るのではないかというのが私の桧に対するスタンスです。よく学校などで、30年生のヒノキの木1本いくらすれでしょうか?という質問をします。こういう質問をすると木材関係者の中には、手入れの状況は?生育環境は?などと突っ込みを入れてくる方もいますが、あくまでザックリしたイメージで捉えて下さい。その問いに対して純粋な子供たちは思い思いの価格を言います。10万円、50万円、100万円!
そうです、子供たちの脳裏には、天を衝くほど通直に伸びた木の姿がイメージされ、自分の身の丈の十数倍もある「生き物」に対して、本能的な価値観としてそういう値段が口から出てくるのです。私はそれこそが木に対する本質的な揺るがざる『生命価値』だと思っています。実際にはわずか数百円から数千円の価値として取引されるわけですが、私はそれを『経済価値』と呼んでいます。本来人として感じる100万円の価値を100分の1以下の価値に貶める事が材木屋の仕事なのか?
この考え方には大いに反論もあろうと想いますが、あくまでも私の考えかた。材木屋が100軒あれば100通りの考え方があっていいというのが私の考えなので、それぞれ自分の思うべき道を進めばいいのだと思います。その道を明確にもせずに他人の考え方に異を唱えることこそ不遜。実践してこその理屈。私は私なりに、今の桧に建築材とは違う価値を見出したいと考えています。ならば立つべきステージを変えるしかない!そこで新たな桧の出口を求めようというのが結論。まだ続きます!
しかし、古来より日本の建築材の主役として親しまれてきた桧の新たな出口を見つけるのはそう簡単なことではありません。今はまだ『森のしるし』など、1つ1つは極めて小さく単価も低くとも、とにかく1本のヒノキからなるべく沢山の商品を作り出す「小型商品を量産できる価値」程度しか仕上がっていませんが、それとてもうすぐ累計で2万個を越えます。小さな小さな取組でも続けていくことで、雨水石をも穿つ結果を出せるものと確信を得ているとこころです。+
今後は更に新しい出口を模索していくつもりです。ところで、今さらですが『木曽桧』についての説明。ヒノキはヒノキ科ヒノキ属の日本固有の木です。ヒノキ属としては他に国内ではサワラ( 椹)、台湾ではタイワンヒノキ、ベニヒ(紅桧)、北米にはローソンヒノキ(米桧)、アラスカヒノキ(米ヒバ)、ヌマヒノキがあります。他にも園芸品種としてはいくつかの種類があります。日本人で木に詳しくない人でもヒノキという名前を知らない人はいないでしょう。
その桧は、全国に広く分布していて、各地域ごとに地名を冠したブランド桧が確立されています。植林も熱心に行われていることから、天然林としての桧の産地と植林としての桧の産地にも分けられていて、様々な日本三大OOなどにも欠かすことの出来ない木となっています。例えば「木曽桧」は、立派な天然林に対する称号「日本の天然三大美林」の一角(後の2つは青森ヒバと秋田杉)であり、「日本の人工三大美林」にも「尾鷲桧」が登場する(他は天竜杉と吉野杉)。
他にも和歌山や静岡、岡山、宮崎、大分、高知など有名な産地は沢山あります。【森のかけら】にも当然桧は加えるつもりだったのですが、迷ったのはどこの産地の桧を加えるかという事。わが愛媛県は昨年まで生産量日本一を誇っていた桧王国でした(昨年残念ながら首位陥落!)ので、本当は愛媛産の桧を選びたかったのですが、その当時から愛媛の桧は全国的なブランド名で呼ばれるだけの確固たる地位を築いてはいませんでした。そこで広く浸透していた「木曽桧」を選択。
全国に数多ある桧ブランドの最高峰が「木曽桧」と言っても差し支えはないでしょう。愛媛の桧もそうなれば嬉しいものの、そうなるまでには膨大な時間、歴史、背景まで含めた物語性が必要になります。木曽桧が知られているのは、それを取り巻く圧倒的な物語性。特にその名に箔を与えているのが「木曽五木(きそごぼく)」の1つであるという事。木曽五木とは、木曽地方に生育する5種類の木の事で、ヒノキ、サワラ、アスナロ(ヒバ)、コウヤマキ、ネズコがそれにあたります。
なぜこの5種の木が有名なのかというと、徳川時代にこの地域を所管していた尾張藩が、この5種の木に対して厳格な禁伐政策をとっていたからです。当時この禁を破って伐採するとその代償として命で償うという「木1本首1つ」と言われる厳しさで5種の木を保護してきたのです。その結果、後世木曽には立派な原生林が残り、禁が解けた以後立派に成長した目込みで美しい艶と光沢を備えた木曽桧は、様々な商品(風呂桶やお櫃などに加工され出材され人気を博したのです。
ではなぜに徳川幕府はそれほどまでに木曽五木を大切に保護したのでしょうか。そもそも桧は、スサノオノミコトが日本書紀において「宮殿は桧で作るべし」と言ったように、良質の建築材として古来より親しまれ使われてきた歴史があります。以前にこのブログでも触れましたが、かの織田信長が安土城を築いた際にも、良質の桧を求めた記述が残っているほどです(詳しくは是非、映画『火天の城』をご覧いただきたい)。桧は城造りに欠かせぬ素材だったのです。
相次ぐ築城ラッシュで、次第に良質で大きな桧は資源不足になってきます。「時の権力者は大木を伐る」事で威厳を保とうとしたのです。そして秀吉、家康、その後の徳川幕府は良質な桧を木曽に求め続けていたのですが、さすがに無計画に伐採していたのでは豊富な資源も底をついてしまうことから、自分たちが使うために厳しい禁伐政策をとったのです。つまり木や環境の事を考えてといわけではなかったのですが、結果的にそれが桧の文化を残すことになっていったのです。
木を語るうえでそういう物語性は大切です。それで【森のかけら】には「木曽桧」を採用しました。全国に多数ブランド材が存在するのはスギも同じなのですが、桧は杉ほどに特徴に差異がみられません。特にかけらのように小さな断片になってしまうと。それで匂いに特徴のある「屋久桧」と「木曽桧」の2種のみをかけらに取り入れました。桧についてはまだまだエピソードがあるので、今後も随時アップさせていただきたいと思います。これにて「木曽桧」の項、ひとまず完了。