森のかけら | 大五木材

今日のかけら005

アカマツ

赤松

マツ科マツ属・針葉樹・日本産

学名:Pinus densiflora

別名:メマツ(雌松)、オンナマツ(女松)

 英語名:Japanese Red Pine (ジャパニーズ・レッドパイン)

気乾比重:0.42~0.62

日本人とマツのあった暮らし①*

 

いつも通り、遅れに遅れている「誕生木の出口商品」ですが、せめて誕生日の木の話だけでも(それも遅れ遅れではありますが・・・)という事で、1月の誕生木である『マツ(松)』について。実は『適材適所NO.188』でもマツについては取り上げているので内容は重複する部分が多いのですが、紙面の都合で割愛した部分も沢山ありますので、ここで改めて1月の誕生木であるマツについて取り上げさせていただきます。

まず「マツ」とひと口に言ってもその種類は実に多様でさまざまなマツがあります。主なものだけでも、アカマツ、クロマツ、ゴヨウマツ(ヒメコマツ)、トドマツ、エゾマツ、アカエゾマツカラマ等々。日本の47都道府県にはそれぞれに県木が決められていますが「マツ」を県木としているのは、北海道、岩手、群馬、福井、島根、岡山、山口、愛媛、沖縄の9箇所。そのうち、北海道は「エゾマツ」、岩手県は「南部アカマツ」、群馬と島根県は「クロマツ」。

岡山県と山口県は「アカマツ」、沖縄県は「リュウキュウアカマツ」。福井県とわが愛媛県は、アカマツとかクロマツの特定の無い「マツ」という事になっています。クロマツについては、島根県の隠岐の島産の『オキノクロマ』で以前に『今日のかけら』でご紹介しましたので、今回はマツの中でももっともメジャーで、多くの方がもっとも身近に感じるであろうマツの木の代表格である「アカマツ(赤松)」を取り上げます。日本人なら誰でも知っている超メジャーな木ですが、実はあまり知られていない話もあります。

学校などで子どもたちに知っている木に名前をあげてみてと尋ねると、」、「ヒノキに並んで名前の出てくる木がマツだと思います。それほど日本人に馴染みのある木がマツなのです。昔であれば、銭湯のペンキ絵の定番といえば白砂青砂の風景画でした。最近では銭湯もすっかり様変わりしてしまい、今どきの子どもたちが知るマツというと、テレビやインターネット、漫画など描かれたマツで、実際のマツの木は遠い存在になっているかもしれません。しかし日本人は昔から日々の暮らしの中でマツと深く関わって来たのです。

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日本人とマツのあった暮らし②*

本日は、日本人とマツの木の関わりについて。漠然としたイメージとしては大昔から日本にはマツの木が茂っていた考えるのは、例えば昔の屏風画や絵画などにマツが描かれていることが多いからだとか、結婚式などの賀寿の象徴としてにおめでたい場面には必ずといっていいほどマツにちなんだものが登場するからなどの理由によるものだと思います。なので日本では大昔から伝統的にマツが使われていたと思い込んでいると思っているのでしょうが、果たして本当にそうなのでしょうか?

弊社が作っている木製マグネット『森のしるし』にもマツをデザインした『高砂松』がありますが、他にも二階松、三階松、嵐付き三階松、三つ松、頭合わせ三つ松、三本松、光琳松、向かい松、四つ松、櫛松、抱き若松、さらにそれぞれのマツに丸輪をつけた丸に三階松などのバリエーションも豊富で、マツをモチーフとした沢山の図柄があります。また家紋だけでなく、マツを商品の中に図案として取り入れている企業、あるいは商品も沢山あります。

以前に「日本酒を美味しく飲む会」でお世話になった石鎚酒造さんや、個人的に和菓子の中でもっとも好物な大洲の銘菓・富永松栄堂さんの『志ぐれ』などの商品のラベルにも、デザイン化されたマツの姿を見ることが出来ます。マツは常緑で青々としていること、また長寿でありその姿かたちも逞しく雄々しい事などから、日本にとどまらずヨーロッパなどでも尊崇され、永遠に変わらないものの象徴として崇拝の対象にもなっているほどです。正月の門松にも縁起のいいマツが使われています。

 

天の羽衣伝説などの昔話にも登場することから、私自身もマツは悠久の昔から日本全国に根づいていたと考えていたのですが、実はそうではなかったのです。しかもマツが全国区として認知されたのはそんなに古い話ではなかったというのも意外でした。自分が地名にマツの名を冠する愛媛県松山市に住んでいて、私の名前を命名してくれた祖父の名が国松で、母の旧姓が浅松と、マツとは切っても切り離せないほどにご縁が深いのです。なので、マツを知ることは私にとっても自分のルーツ探しの旅なのです。更にマツの話、明日に続く・・・

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日本人とマツのあった暮らし③*

では、マツはいつ頃日本に現われて、マツを利用していたのでしょうか。遥か縄文時代に、マツで作った丸木舟が発掘されたという記録が残っていますが、その数は僅かでそれ以外には目立ったマツの遺物は発見されていないそうです。また花粉が地層の中にどれぐらいに含まれているかを分析した調査でも、ごく一部の例を除いて、当時日本中にマツが栄華を誇っていたというデータは見当たらないようです。それが一転するのは弥生時代から古墳時代にかけて

その時代になると、中国地方辺りで盛んに「たたら製鉄」が行われるようになります。たたら製鉄は、映画「もののけ姫」でも登場しましたが、砂鉄を採集するために大掛かりに山を崩して土砂を流します。その結果、山は荒れ地となります。以前に、世界遺産で有名な石見銀山に行った時、たたら製鉄の名残り「清水谷製錬所跡」を見ましたが、かなりの山奥で製鉄がされていて事がうかがい知れました。製鉄に欠かせないのが火です。

その火を作る原料として大量のが必要となります。周辺では多くの木々が伐採されました。そんな開かれた荒れた土地を好むのがアカマツ。成長力も旺盛で、日当たりのよい場所を好む『陽樹・マツ』は、待ってましたとばかりに勢力を拡大。成長に時間のかかる広葉樹を凌駕し、原生林のマツが伐り尽くされると二次林が生まれ、それは薪の材料としても大量に消費されました。製錬所跡の薪の分析でも圧倒的にマツが多いそうです。

マツは、広葉樹に比べると火持ちこそしないものの火力が強い事から、高い燃成温度が求められる陶器などの焼き物や製塩などにも燃料として利用されました。その結果、たたら製鉄や陶器、製塩などの盛んだった西日本中心にマツの分布域が拡がっていきました。東日本ではクヌギやナラ、クリなどの広葉樹が燃料として使われた痕跡は残っているものの、まだまだマツは近畿から中国地方の一部にとどまるローカルな木だったようです。

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日本人とマツのあった暮らし④*

マツが一気に全国区の売れっ子になるのは江戸時代。人口に急激な増加に伴い、江戸に人が集まるようになると、多くの耕地が必要になります。耕地拡大をはかるために、決して好条件ではなかった場所にも田畑が作られるようになり、その飛砂防止、防風などを目的として砂浜という砂浜にマツが植えられました。砂との長い格闘の結果砂地に根づいたのがクロマツです。こうして、白砂青砂と呼ばれる日本の海岸風景が誕生しました。

天の橋立や美保の松原、松島など今では「日本の原風景」のように思われる海岸のクロマツですが、それは景観づくりとしてではなく、もともとは耕地拡大のための防風林・防砂林として江戸時代に植えられたのが起源だったのです。松島は残念ながら先の震災で壊滅してしまいましたが、江戸時代から潮と戦ってきたクロマツの復活を願っています。地元の学生たちと共同で被災したマツを使って「森のしるし」を作らせていただいています

そのマツにも、江戸の昔に東北の地で潮に負けまいと格闘したクロマツ一族の戦いのDNAが含まれているのでしょう。一層大切に作らせていただかねばの思いが強くなります。このようにしてそれぞれの木の起源や背景を探っていくと、もはやただのマテリアルとして考えるだけなんてモッタイナイ!木の用途を考えた際、今の暮らしを基準として考えざるを得ないのですが、木は昔からその姿を変えずとも人の暮らしぶりは激変しています。

江戸の話に戻りますが、大都市に人が集まるようになると周辺から大量の物資が運びこまれるようになります。農林業を生業としていた周辺の村々では、里山の木を使って薪や木炭を作り町に売りに行くようになります。里山=雑木林という生態系は、縄文時代に集落が営まれるようになって、周辺の雑木林を恒常的に利用することで確立されたものですが、その過剰利用が進むと雑木林の再生産のスピードが間に合わなくなります。

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日本人とマツのあった暮らし⑤*

 

薪や木炭を得るために雑木林が伐採され太陽の光が差し込むようになると、成長に時間のかかる雑木林を横目に、開けた土地で陽樹のマツがはびこっていきます。荒廃した山野緑化目的でもマツは植えられ一気にマツ一族は勢力拡大。そうなると薪や木炭にしてしまうにはもったいないような大きなマツも現われるようになり、一般の家屋の材料としても使われるようになります。マツは粘りがあって腐食に強く、強度があることから、屋根を支える梁や桁、柱など、また社寺建築などにも多く使われました

建築材以外にも、その特性を生かして土木資材(杭や矢板など)としての利用も進みました。その後明治時代に入ると、国として本格的な土木事業。治水事業が行われるようになりました。大型重機も導入されるようになると、それに合わせてマツの需要も飛躍的に増えていきます。全国各地で伐採が進み、天然林が開発枯れる一方、至る所で植樹も盛んに行われ、遂にマツは全国津々浦々に繁殖しわが世の春を謳歌することになります

それまでは海岸周辺にはクロマツ、山地にはアカマツという住み分けがされていたようですが、この時代にはその区別なく植えられ、自然交配した雑種なども生まれたようです。そしてそれぞれの分布域も拡大していきます。更に戦後復興に伴う土木事業、土地開発と、人間の経済活動と歩調を合わせるようにマツは勢いを増し、一時代を築いていくのです。そして長野県のカラマツ岩手県のアカマツなど各地で特色ある、地域の名前を冠するようなブランドマツも現われるようになります。

そのマツにとって大きな分岐点となったのが昭和30年代。高度経済成長は日本人のライフスタイルを一変させます。農業から工業へと舵を切った日本経済は、それまでの農村のあり方を根本から変えていきます。農村から都市への人口流入、里山の崩壊、薪炭から石油・石炭エネルギーへの転換です。活用されなくなった雑木林や松林は放置され荒れていきます。手入れの行き届かなくなった山で、マツは苦難の時代を迎えることになります。いよいよ、マツの話も明日が最後!
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日本人とマツのあった暮らし⑥*

放置され、枝打ちや下草狩りなど手入れがされないと、十分な光が地表にまで届かず、明るい場所を好むマツにとっては好まざる環境になのです。はびこってきたさまざまな広葉樹などの樹種間競争にも負け、残ったマツは老齢化するばかり。そこに輪をかけたのが、マツクイムシによる被害です。西日本から始まったこの虫害はやがて全国に広がり、残っていた立派なマツをことごとく枯らしていったのです。愛媛周辺でもその被害は甚大なものでした。

その影響は今なお残り、瀬戸内の木材産業を長らく支えてきたマツはもはや壊滅的な惨状で、続々とマツ製材工場が撤退していったのです。その中で、なんとかこの中国地方のマツの文化を残そうと奮闘しているのが岡山県の(株)鈴鹿製材所さん。代表取締役の鈴鹿雄平とは旧知の仲ですが、倉庫には今では手に入らないような立派なマツのストックが豊富にあり、地松の専門工場としてマツ材にかける心意気は半端ではありません。

縄文の時代決して目立つ存在でなかったマツが、日本人の暮らしと共に晴れやかな舞台に引っ張り出され、日本の名勝を作り上げ、日本の原風景とまで親しまれ、住宅や土木の主要部材として大活躍したものの、マツクイムシの問題はあったとはいえ、ライフスタイルの変化に合わせて用無しにさせてしまうなどというのは失礼な話。誕生木の商品を作るにあたっても、この歴史的な背景をよく考えて、マツの特性を活かしたいと思います。

今の時代のこどもたちにとって、わたしたちの世代以上に「マツ離れ」は進んでいると思います。振り返ってみれば、暮らしの周辺で「マツで出来たもの」見かけるを機会がほとんどないように思います。むしろデザイン化されたマツは溢れているのですが、やはり実際に触ってもらわなければ、マツの最大特徴「ヤニ」がマイナスにしか思えなくなる危険があります。そのヤニがあるお陰で腐食に強く、優れた耐湿性を有するマツ。それゆえに全国に植えられ活用されたわけですから、やはりマツを使った身近なものの商品化にとって、ヤニの存在をどうとらえるかという事は避けては通れない命題!江戸のひとがマツで塩害や潮風に立ち向ったような覚悟で、マツの出口に臨まねば!!

 




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