森のかけら | 大五木材


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最近はすっかり『さかなブログ』となりつつありますが、寿司屋と見まがうほどに鰊(ニシン)のネタがありまして、本日もニシンはニシンでも今日はその名前に関する話。まずはその名前の由来についてですが、身をふたつに裂いて食用にする「二身」からきている説や、二つに身を割るからことから「妊身(ニンシン)」がニシンになったとか、両親が揃っている者は必ず食べなければならない魚だった、あるいは両親の長寿を祝って食べる魚だったことから「二親」が「ニシン」になったなど諸説あり。

 

 

 

漢字表記としては、今は『』と書き表しますが、かつて北海道の松前藩では米が取れなかったため、納税や俸禄などにニシンを収めたのですが、その際にこれは「魚に非ず、海の米なり」と言ったことから、魚偏に非と書いてニシンと読ました言われています。信憑性がどうのこうのというよりも、こういう伝承を大切にしたいと思うのです。それが真実ではなかったとしても、語り継がれ逸話の中にこそ、本質が隠れていたり、別の形で反映されていたりすることは多いから。

 

 

今は『鰊』の漢字が使われますが、魚偏の隣の『柬(カン)』は、束ねたものを選り分けたり、選抜するという意味があるそうで、魚偏とくっ付くことで、春になると産卵のために沿岸に押し寄せることから、「春に選ばれた魚」という意味で『鰊』の漢字になったのだとか。英語では Herring(へリング)。ファッションの世界でもこの言葉は使われていて、この後に「骨」を表す意味のbone(ボーン)をつけると、Herringbone(ヘリンボーン)となります。

 

 

 

直訳すると、『魚の骨』ですが、斜め線がV型に組み合わさった折り目が、魚の骨のように見えることからこの名前が使われます。日本語では、『杉綾織り』とも呼ばれます。ファッション業界では模様の名前ですが、住宅業界においてはフローリングの貼り方の技法として使われます。そのヘリンボーンに対応できるフローリングは、以前はチークカリンなど一部の樹種に限定されていたのですが、新たにナラカバ、ブラック・ウォールナットなども加わりました。




昨日、腐植土の話を書きましたが、海にとっては恋人のような存在の腐植土ですが、住宅建築にとっては非常に厄介者!地下にこの腐植土があると、地盤改良などを行う必要があります。腐植土は植物の繊維分などを多く含んでいるため、スポンジのように軟弱な土なので、隙間が大きくて、地盤沈下を引き起こす危険があるのです。家づくりには土づくりは重要な問題。その家を成す木材は、北海道から鰊を上方に運んだ北前船に乗せて往来され、豪勢な鰊御殿が建てられたのです。

 

 

以前に『能登ヒバ』について書いた際に、青森から能登の地に青森ヒバの苗木を運んで植林したのが、能登ヒバの起源だとご紹介しました(現在では、元々石川県に天然のヒバが自生していたという研究もあるようですが)が、北前船は能登ヒバ以外にも多くのモノを運び広めました。水揚げされた鰊は生のままでは日持ちしないため、内臓や頭を取り除いた『身欠き鰊』として全国に運ばれました。また鰊を原料に作られた鰊粕は、桑や綿花の肥料としてとても重宝されたそうです。

 

 

 

ひと網で御殿が建つ』とまで謳われた鰊の豊漁は、地域経済にも大きく貢献し、有力な網本はひと財産を成して競い合うように豪奢な家を建てあいました。中でも有名なのは、北海道札幌市の『にしん御殿小樽貴賓館』で知られる旧青山別邸。明治・大正期に鰊漁で巨万の富を築いた大網元の青山家が2世代にわたって建てた5000㎡(およそ1500坪)にも及ぶ別荘は、国の登録有形文化財の指定も受けています。現在では到底揃えることの出来ないような材料の数々。

 

 

 

まだ直接行ったことはないので、北海道に行く機会あらば是非行ってみたいと思っています。当時の価値で、新宿の有名デパートの建築費が50万円だった時代に、実に31万の巨費を投じて建てられた私邸ですからその豪奢ぶりが分かろうというもの。これらの巨木や銘木も北前船に乗せられて全国各地から集められたのではないでしょうか。実物を見ないまでも、まあ今ではとても揃えられない貴重な材、規格外のサイズであることは分かります。

 

 

 

森が海が育てる話を書きましたが、森からの栄養が鰊の大群を招くのに貢献したのだとしたら、獲れた鰊は網本たちに巨万の冨をもたらし、彼らが豪邸を建てるために山から立派な材が切り出され家や家具として利用される。海のめぐみが巡り巡って山側にももたらされ経済の循環を作り出しているわけです。しかし、こういう僥倖(ぎょうこう)でもなければ、このような銘木や巨木は必要とされないわけで、『鰊の大群再び!』を願っているのは漁師ばかりではないという話。




鰊の大群が消えた理由のひとつに、森林破壊も関与しているのではないかという説もあります。明治以降、北海道の開拓が急速に進み、木材の大量伐採が行われ道内の森林環境が大きく変化したところに、洞爺丸台風が発生し(昭和29年)、森の生態系が崩れ、大量の土砂が海に流入し、沿岸部での植物性プランクトンが激減し、それを食べる動物性プランクトンも減少。そのため動物性プランクトンを餌にしていた鰊が減った、あるいは産卵場所の減少が原因とする説。

 

 

森から流れ出た栄養分が豊かな海を作ることはよく知られていて、現在多くの地域で漁師さんが植林活動を行われています。最初、この説を聞いたときは、材木をなりわいとする者のはしくれとしてドキッとしたものです。しかしこの説には懐疑的な声も多く、確かにそれも原因のひとつかもしれないが、根本的には乱獲によって絶対数が減ったことが主原因だろうと言われているようです。それでも森が弱ることで海を弱ることに違いはなく、大きな戒めとして自覚せねばなりません。

 

 

 

盟友・井部健太郎君とも最近、このことについて話をしていたところですが、林業の疲弊は山側だけの問題にとどまらず、多方面に影響を及ぼす大きな問題です。森と海との関係を簡単に説明すると、木の落ち葉(特に広葉樹)や落枝は微生物によって分解され、鉄分などと結合してフルボ酸鉄という物質ができます。プランクトンや海藻は、生育に必要な鉄を直接取り込むことができませんが、フルボ酸鉄であれば可能です。そのフルボ酸鉄は河川によって海に運ばれます。

 

 

 

河川には海の100倍とも1000倍ともいわれる鉄が含まれていて、海にまで運ばれたフルボ酸鉄はプランクトンや海藻が吸収し、そこから始まる食物連鎖によって豊かな海が出来上がるのです。また沿岸域に流出した落ち葉は稚魚の貴重な保育場所にもなるなど、文字通り海は森の恋人なのです。中でも広葉樹は、針葉樹に比べて樹脂成分が少ないため腐食にかかる時間が短くすぐに腐植土となることから、海に栄養分を供給する機能が高いのは広葉樹と言われています。

 

 

 

また、腐植土は水を蓄えておく保水機能にも優れていて、地中に大量の水を蓄えておくだけでなく、土砂の流出を防ぐ機能も備えています。そのため腐植土が無くなってしまうと、大雨などが降ると、土砂が海に流れ込んで、海底の生物たちを覆ってしまうのです。その点からも、森が海に果たす役割はとても大きいのです。異業種とのコラボ商品の開発を安易な考えで行うことが多かったのですが、森との互換関係など背景をもっと深く切り込んで考える必要あると猛省。 




オリーブウッド』の話は一応昨日で終わりなのですが、そもそものオリーブの出口として想定されていた鰊(ニシン)のオイル漬けの事を調べていて、つい『好奇心の深み』に足を踏み入れてしまいました。それで気になった事がいくつかあって、それが不思議と『木』に多少なりとも関わりがあることばかりなので、もう少しだけ鰊の話を続けます。気になるキーワードは『なぜ鰊の大群が消えたのか?』、『鰊を運んだ北前船』、『鰊御殿』、『ヘリンボーン』の4つ。

 

 

 

まず最初の疑問は、春になると産卵のため沿岸に押し寄せ、産卵で近海一体の海が乳白色に染まるほど群れて、地域の経済を支えた鰊の大群がなぜ姿を消したのかという事。獲っても獲っても獲りきれないとまで言われた鰊の大群は、昭和29年に小樽と余市で確認されたのを最後にその群来は見られなくなりました。鰊はの大群がいなくなった理由はいくつか考えられていますが、どれもが絶対的な理由か定かではないそうです。最大の原因に挙げられるのが、継続的な乱獲

 

 

 

いくらでも押し寄せてくる鰯の大群に対して漁獲制限なく獲っていたわけですから、いくら産卵するとはいえ全体の個体数が減るのは当然のこと。ピークであった明治30年には30憶匹とも40憶匹ともいわれる鰊を獲ったというのですから減らない方が不思議。それでもその後も結構な期間、鰊の大群が押し寄せてくるのですから、獲られれば獲られるほどに子孫を残すために子供を増やそうとする自然の防衛本能が働いたもののその限界を超えたなんてこともあるのでは。

 

 

今にして思えば、それだけ獲り続ければ鰊も減るだろうと想像できるものの、無尽蔵に押し寄せる鰊の大群を前に「もうこれ以上は獲るな!」と声を挙げることなどできなかったのでしょう。事が大きく動き出すとそれに携わる人、モノの規模も大きくなって、いろいろな事情やしがらみが発生してきて、回り始めた歯車は容易には止まりません。企業も同じこと、拡大路線を選択した企業は人や裳のを減らせなくなるのです。鰊漁、なんだかバブル景気に似て切ない・・・

 

 

鰊が減ったのは日本だけではなく、海洋大国ノルウェーでも同じような事が起こったものの、およそ20年にも及ぶ忍耐強い科学的な資源管理を実施して、見事鰊は戻ってきたのです。他にも海洋環境の変化が考えられています。海水温や海流が変化して海が暖かくなったため鰊が来なくなったというもの。しかしもっと北に位置するロシアでその時期に鰊の豊漁がなかったことから、この説に懐疑的な学者の方もいます。そして三番目の原因が、もっとも気になる森林破壊!?




★今日のかけら プレミアム004オリーブOlive モクセイ科・広葉樹・スペイン産

さて本日は昨日に続いてオリーブの話ですが、ちなみに【森のかけらプレミアム36】に入っているオリーブはスペイン産のものですが、ここでお話しするのは小豆島で育った国産オリーブの話です。まずは小豆島とオリーブの歴史について。四国に来られたことのない方には小豆島がどこにあるのか分かりづらいかもしれませんが、瀬戸内海・播磨灘にある島で、香川県小豆郡に属し、小豆島町、土庄町の2町からなり、人口は3万弱。淡路島に次いで2番目に大きな島です。

こ の島がなぜオリーブの産地になったかというと、今から100年と少し前の明治41年(1908年)に、当時の農商務省がアメリカから輸入したオリーブの苗木の試作をするために日本で3か所が選定されました。なぜそれらの場所が選ばれたのかというと、オリーブの原産地のイタリア、スペイン、ギリシャなど地中海地方に似た温暖な気候の場所であるということと、小豆島については当時沢山獲れたニシン(鰊)をオイル漬けにして輸出する狙いもあったとか。小豆島以外の2ヶ所は鹿児島と三重。

その後、小豆島以外の地域ではオリーブがうまく育たず栽培を断念。小豆島の環境にはうまく適応したようで、順調に生育し、大正時代の初めの頃には搾油ができるほどに地域に定着したのだそうです。栽培農家の努力もあって、その後栽培面積も増えて、昭和29年には県花、昭和42年には県木にも指定されています。しかし昭和34年の農産物自由化以降は、スペインなど海外から安価なオリーブ製品が輸入されるようになって厳しい価格競争の波に飲み込まれることに。

当初考えていたニシンのオイル漬けも、漁獲環境が一変して激減します。ちなみに明治30年には国内の鰊の漁獲量はおよそ100万トンもあって、海藻なども含めたあらゆる漁業の総漁獲量が174万トンだったので、全体のおよそ6割をニシンが占めていた計算になります。個体数で換算すると、約30~40億匹という天文学的な数字!しかしその後ニシンは急速に獲れなくなり、「あれからニシンは どこへ行ったやら ~♪」と石狩挽歌で歌われたように激減の一途を辿ります。




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