森のかけら | 大五木材

愛媛の女性情報誌「愛媛こまち」の中に、「こまち読者の”欲しい”リクエストをクリエーターにリクエストして”気になるアイテム”を作る」というコラボ企画があって、今回は弊社も日頃からお付き合いのある家具職人・カグマ製作所馬越崇永君に声がかかりました。今月のリクエストは、『食卓を彩る木製食器がほしい!』ということで、馬越君が作り出したのが木製トレイコースター。その商品を弊社で取り扱わせていただくことになり、今月の20日から3月31日まで期間限定にて『木のもの屋・森羅』にて展示販売させていただきます。

トレイは大と中の2サイズ(大:185✕300㎜ 中:185✕185㎜)、コースターは1サイズ(90✕90㎜)で、樹種はそれぞれブラック・ウォールナット(BW)ホワイトアッシュ(WA)の2樹種。表面は、外丸鉋で削って微妙に凹凸があり、木ならではの触感が楽しめます。また、仕上げには無添加のクルミ油が塗ってあるので、優しい温もりが感じられます。そのあたりの質感が写真では伝わりにくいのが残念ですが、ぜひ実物を手に取ってご覧下さい。それぞれにレザーの取っ手が付いています。

価格は、トレイ(大)が¥3,200(税別)、トレイ(中)が¥2,500(税別)、コースターが¥800(税別)。本来であれば素材的な価値としてはBWの方が高いのですが、そこは馬越君の配慮で特別にWAに価格を合わしているようです。そういう意味でBWにお買い得感はあるものの、こういうものって好みですので、深みのあるこげ茶のグラデーションが魅力のBW、木目が整ってシャープな木柄を楽しめるWA、ちょうど名前もにブラックとホワイトと対照的な名前が付いていて、それぞれ個性的ですのでご自分の好みでお選び下さい

今回はこういう企画だったので小さめの食器を作った馬越君ですが、本来はテーブルや学習机、椅子などの大型の家具を製作しています。中でも椅子作りにはこだわりがあって、以前にペーパーコードで座面を網み込んで作った編み座面の椅子は素敵でした。馬越君も忙しくてなかな時間が取れないようですが、いずれ時間に余裕が出来てストックが溜まれば弊社でも取り扱わせていただきたいと考えています(こまち紙面でも一部に編み細工を施した椅子が映り込んでいます)。現在は玉川町の奥の作業場にこもって家具造りに励んでいますが、その様子は以前にこのブログでもご紹介させていただきました。弊社の営業時間は、平日は8時~17時(日曜日、第二土曜日、祝祭日が休み)、木のもの屋・森羅は道路からも直接出入り出来ます。




 
お隣さんがすっかり更地になってしまったので、日々新鮮な風景を見ているのですが、お陰で国道から自宅も丸見えになってしまって、我が家では普段から変な格好はできないねとちょっと自意識過剰な子どもたち。もともと我が家を建てた頃は、家の西側一帯はただただ田んぼが広がるだけで人家も無い殺風景なところだったのですが、今では新興住宅地となって、バイパスが通って、スーパーは出来るわ、ホームセンターは出来るわ、次々にお店は出来るはわですっかり周辺環境も様変わり。

以前はその古びた看板しか見えなかった事務所も、今では遠くからでもよく見えるようになって何だか気恥ずかしいくらい。やや斜めに角度がある国道に並んで建っているため、端の方が少し鋭角になっているのですが、実際はこの写真で見るほど三角な建物ではありません(この写真は煽り気味に撮っているので)。こちらもお隣さんがなくなったので、風がまともに当たるようになって、ここってこんなに風が強かったのかと今更認識するほどのプチ環境変化?!に驚いたり楽しんだりしているところ。

そうやって風とかがまともに当たるようになって、庭の木の葉の揺れ具合も以前よりだいぶ強くなったように思います。わずかに枝に残っていたクヌギの葉っぱも吹き飛んでしまいました。しかし、そんな中でもいまだに枝にしっかりとしがみついているイガグリがひとつ。食べるためだけに植えているわけではないのですが(勿論、食べもしますが)、数年前から実がつくようになって秋も過ぎると勝手に落ちてしまうのですが、この1つだけはしぶとく枝にしがみついたまま歳を越えました

オー・ヘンリーの『最後の一葉』ではありませんが、さすがにここまで残っていると、頑張れと応援したくもなってきます。イガの中身がどうなっているかも興味のあるところですが、もうこのままずっと次の世代と共存して欲しいと思ったりも。そういうことってあるのか分かりませんが、普段の仕事は伐ってしまって板になった中身ばかり相手にしているので、その母体たる「樹」については知らないことばかりで、特に実や花についてはほぼ知識も無く、こんなことひとつでも驚いたりしてしまいます。

毎朝、出社(といっても勝手口から1分もないのですが)する時に薄暗い中で、この栗が今日も無事残っているかどうかの確認をするのが日課になって、無事な姿をみると、よしよしと安堵したりして、気分はすっかり『樅の木は残った』の原田甲斐のような気分に。余談ながら山本周五郎先生のこの名作も、今の子供たちの多くは読んでいないどころか名前すらも知らなくて、出張木育などの際に『モミ』の説明をする時に、環境汚染などに弱く高地を好むモミの特徴を伝えるのに最適な教材なのにガッカリすること多し。作品の中で、遠く江戸から仙台は伊達藩の安泰を守り抜いた忠臣・原田甲斐の姿を、残った樅の木になぞらえて、「凛と力強く、昏れかかる光の中に独り、静かにしと立っていた。」と描かれています。このイガグリ、何を思ふ・・・




漫画『ちはやふる』の話を出しましたが、漫画のタイトルとなっているのは、小倉百人一首の撰歌「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくる」に基づいています。意味は、「世の中には不思議なことが多いものだ、神様が治められていた昔の時代にも、聞いたことがない。紅葉の名所である竜田川では、紅葉を散らして鮮やかな紅色に水を≪くくり染め≫にしているとは。ということらしく、≪くくり染め≫というのは、布を染めるための絞り染めという技法の事。つまり川の水が紅色に染まるほどの紅葉を表現しています。

作者は、非常に美男子で『伊勢物語』の主人公だとされている、『六歌仙』のひとりである在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)。漫画の作者である末次由紀氏は、漫画のタイトルの由来を、「本来は≪勢いが強いさま≫を表す、≪ちはやふる≫の意味を知った主人公が、それをかるた競技の中で体現していく物語なのだ」というような事を仰っています。紅色に染まるその情景を思い浮かべながら材木屋である私が気になったのは、その句の中に『紅葉』と『神代』という2つの木に関係するキーワードが含まれている点。

『紅葉』はさておき、気になるのは『神代』という言葉。在原業平朝臣の句では「かみよもきかず」と、神代を「かみよ」と読ませていますが、材木業界では「じんだい」の方が通ります。意味は同様に「神が治めていたほど悠久の昔の時代」ということで、昔に地中深くに埋もれてしまった土埋木(どまいぼく)の中でも、品質のいいものに冠せられるプレミアな言葉です。今では土埋木全般に対してその呼称が使われるため、いいものも悪いものもごちゃまぜにして神代と称せられて、ややプレミア感が薄れてしまっていますが。

そういう私自身も【森のかけら】では、『神代』を乱発し過ぎで申し訳ないと思っているのですが、一般の方に太古の浪漫を感じてもらうための分かりやすい入口として、あえてインパクトのある『神代』という言葉を使わせていただいています。【森のかけら】では、ケヤキ、スギ、タモ、ナラ、ニレ、ホウの6樹種について神代の冠を付けさせていただいています。その中の5種類を揃えた『神代の5かけら』は、マニアに喜ばれています。『ちはやふる』の話を書いていて、木はどういう形からでも絡んでいける稀有の存在であることを確信




20160229 1そう解釈すれば、今まで具合が悪かった問題がすべて理由付きで説明がつくのです。詳しくは是非本書を読んでいただきたいのですが、今まで多くの歴史家が、権威にいかに盲目であったかということと、ウルトラC級の想像力説明ではなく、そこに人と人がいるからこそ起きる摩擦の丹念な記録の読み込みにこだわった検証主義の生み出した揺るぎない新説。個人的にはなぜ信長の最後の言葉「是非に及ばず」を誰が聞いて誰が伝えたのかの答えが分かっただけでも満足だったのですが。

 

20160229 2これが本能寺の変の真実だったとしても、歴史の定説が塗り替えられることはないでしょう、今のところは。しかし、私たちが学生時代に教わった歴史の定説が、息子や娘たちの習う歴史の授業では、既に書き換えられているものも少なくありません。例えば肖像画。有名なところでは、西郷隆盛武田信玄、足利尊氏、源頼朝などの肖像画が別の人物だったと判明しています。西郷隆盛といえば、あの太い眉毛と大きな瞳を思い浮かべる人がほとんどだと思うのですが、実はあれは想像画。

 

20160229 3あの自画像が描かれたのは西郷没後のことで、実際に面識もなかったイタリア人画家が想像をもとに描いたものということで、有名な上野駅の犬を連れた銅像の除幕式に招かれた未亡人が、「全然似ていない」と語ったとも。その真偽は定かでないものの、子供の頃に植え込まれたイメージは強烈で、西郷隆盛からイメージされるすべてのモノの根底にはあの姿があって、突然それは間違っていましたと言われても切り替えることなど出来ません。あの顔あってこその西郷さんなのです。

 

20160229 4洋の東西を問わず、歴史は勝者によって書き直されてきたものですが、世界中で歴史上の出来事が近年の研究で史実が塗り替えされています。本能寺の変のように400年以上も前の出来事の真実が暴かれるような事は、当事者の子孫が生き残っていて膨大な史料を紐解くという先祖の復権活動のような思いでもなければ実現しないもの。真実は、その事が暴露されると都合が悪い人やその関係者たちが生きている間は、決して明かされる事がないと言われますが現代ではその定説も覆されつつあります。




20160228 1もう数年前に出版された本なので、今更ネタバレ云々の話ではないと思いますし、いまやテレビやネットでも紹介されているので、明智光秀の子孫が唱える新説の中身をご紹介しても大丈夫かと思います。既にご存知の方も多いと思うので今更な話かもしれませんが、ここまで引っ張っておいて核心に触れないのもどうかなと思うので、簡単にご紹介します。まず世間一般で定説とされている本能寺の変とは、光秀が信長の厳しい仕打ちを恨んで、本能寺で信長を暗殺したという単独犯行説

 

20160228 4しかしそれだと、光秀が信長を討たなければならない決定的な理由と、なぜその日本能寺の警備が極端に手薄だったのかの部分の説明が弱く、それこそ著者の言う「先に答えありきの後付けの理由」で構築された説で、光秀の動機をどう説明するのかが肝でした。ところが、信憑性のある史料を丹念に紐解き「本能寺の変431年目の真実」が導き出した結論は、まったく違っていました。ひと言では説明できないので、ある程度人物関係やその繋がりが分かっていないと理解しにくいかもしれません。

 

20160228 2ここから先は明智氏の説。信長は徐々に力をつけてきた家康を非常に危険視していて、本能寺に家康をおびき寄せて暗殺する計画をかなり前から練っていて、本能寺の変の3カ月前に武田攻めの帰りに、家康領を軍事視察したあたりから伏線が張られ、家康一行をそのお返しとして京都に呼び寄せます。堺での遊覧をおえて信長に会うため京都・本能寺へ。そこで光秀が家康を討つという計画。そのことを家康に悟らせないために最小限の手勢でその時を待つ信長。しかい既に謀反は起きていた。

 

20160228 3土岐家の流れをくむ明智家にとっての悲願である土岐家復興に大きな障害となったのは信長の果て無き野望。信長の中国大陸への侵攻(光秀も大陸へ派遣されるのを恐れ)、親交のある長曾我部への侵攻など。利害が一致する家康、更には次の天下を狙う秀吉とも裏で繋がり、知らぬは信長独りというお膳立てが出来上がっており、突然反旗を翻して光秀が謀反を行ったというのではなく、信長憎しと思う政敵達によって綿密に練られた「家康討ちと見せかけた信長討ち」であったというもの




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