森のかけら | 大五木材

恒例のミセスホーム㈱さんのボーリング大会。ミセスホームの業社会であるミスター会主催による会員と会社の懇親を深める目的のスポーツイベントですが、毎回100人規模の参加で盛り上がる恒例行事です。ミスター会は、業者が順番に交代で役員を務め、年の初めに開かれる総会で承認された年間行事に基づき会を運営しています。私も過去に2回会長を経験させていただきました。今は一会員として会に参加しているのですが、次に役が回ってくるのは数年後のこと。

会員皆が役員を経験しているので、運営の苦労なども理解していて、会の運営についても非常に強力的なのと、いまどき珍しいほど会員会社が固定化しているので誰とも顔なじみで実にアットホームな業者会なのです。私も今まで多くの大手のハウスメーカーの業社会に参加させていただきましたが、その多くが会員にかなり強い圧で新築の紹介を強いるものであったり、施工の失敗や問題点を公開処刑で叱咤罵倒することもあり、とにかく気分が滅入って、とても会社と一体感を得るような気分にさせるものではありませんでした。

結果的にそういうところとは仕事自体も減って、業者会も抜けることになったのですが、ミスター会に限れば会に参加することが楽しみで、たぶんこれはほとんどの会員も同じ感覚だと思います。大下社長はじめミセスホームの穏やかでアットホームな社風もありますし、なにより業者間の仲がいいので誰とでも話が弾む。味方によっては緊張感がないとか、業者の入れ替わりがないからマンネリ化しているという人もいますが、私には参加するだけでネガティブな気持ちになる場からクリエイティブなものが生まれるとは思えません。

考え方はひとそれぞれなので、いろいろな意見があっていいと思いますが、私的にはもう50も越えていくら仕事といえども軍隊のように高圧的な指導をされるのはもう遠慮したい。高速道路を降りた以上は、ミセスホームさんのように弊社の存在意義を認めてくださる会社と長くお付き合いさせていただきたいと思うのです。今回大五木材チームは双子と私の3人で参加させていただきましたが、そんなポジティブな気持ちが幸いしてか、人生初のフォースを出して、ボーリングの下手な私としては上出来の186点、褒められて伸びるタイプです!(笑)




甲子園記念館』は、同球場を本拠地とするわが愛しの阪神タイガースに関連する展示物も多いものの、同時に同球場が舞台となる高校野球や大学アメリカンフットボール(甲子園ボウル)などの関連物なども多数展示されています。記念館の2階に上がると、まずはその高校野球関連ブースがあります。本来、部活動の一環であり、他の部活動と同じでなければならないはずの野球部が、特別扱いされる風潮に対して、高校生の頃から大いなる不平不満はあったものの、観ること自体は決して嫌いではありません。


思うところはあるものの、とりあえずそれは脇に置いといて展示物に集中。高校野球に疑問を持つ前(つまり中学時代頃まで)は、高校野球の大ファンで、その頃は今のように高校野球関連情報が充実していなかったので、田舎にいても得られる数少ない情報誌『朝日グラフ』を、文字通りページが擦り切れるほど読み込んでいました。当時はまだ今ほどに情報が過剰に飾られていなくて、それぞれの選手や学校の背景などの情報も少なくて、シンプルに試合に集中して楽しめていたように思います。

こちらは、1948年(昭和23年)の第30回大会で二連覇した時の小倉高校(福岡県)が使用していた優勝記念バット。その前年に旧制小倉中学として初優勝し、初めて優勝旗が関門海峡を渡ったということで、歴史の重みが傷だらけのバットから伝わってきます。何しろ終戦が1945年で、高校野球が再開されたのが1946年の事。その時の大会は、甲子園球場はアメリカの占領軍に接収されていて、使うことができずに西宮球場で大会が開催されたという時代。日本中が貧しく、バットどころか食料さえままならぬ厳しい時代のことです。

ユニフォームを作るお金もなくて、戦前のものをまねて選手が自分で作ったり、スパイクも無くて普通の靴にサッカー用の靴底を縫い付けて使っていたそうで、バットもチームに2,3本もあれば良いほうだったという時代背景を考えれば、このバットがいかに貴重なものであるのかが分かります。ちなみにこちらは、甲子園の歴史を振り返るコーナーで展示されていた、1939年に甲子園球場で開催された戦車大展覧会の様子。今、高校野球やプロ野球を楽しめるのはこういう過去があったからだと思うと、バット1本にも感慨深いものがあります。

歴代の優勝校のユニフォームなども多数展示してありましたが、やはり愛媛県人として目が行くのは愛媛の高校。夏の大会で優勝5回、春の選抜で優勝2回の合計7回の全国制覇、夏・春合わせて40回を超える出場(夏26回、春16回)を誇り『夏将軍』の異名をとる松山商業のユニフォームも展示してありました。甲子園では通算80勝をあげて、高校野球史上で唯一、大正・昭和・平成の各元号下で全国制覇を果たしている伝統校ですが、最近はすっかり私学に押されて影が薄くなっていて復活が望まれます。




今更ながらですが、2016年6月半ばの話です。今年も、一緒に『誕生木 12の木の物語』を作っている神戸の『住空間設計Labo』(渡辺喜夫社長)さんからチケットをいただき、弊社の井部君とふたりで交流戦中の甲子園球場に向かいました。梅雨の最中ということで松山を出る時は生憎の曇り空でしたが、到着するころには晴れること祈って車を走らせました。ところが兵庫に入るあたりから雨が落ちてきました。数駅手まで車を停めて電車で球場に向かう頃には雨足も強くなってきました。ここまで来ての中止だけは勘弁して欲しい・・・。

甲子園球場に到着したころには至る所に色とりどりの傘の花が咲いていて、かなり中止の危険性が高まります。雨が恨めしいのは材木ばかりではないという事。よく野球が中止になった際に、他人事ながら気になるのは、その経費問題。特に年に数試合だけ組まれる地方での公式戦の場合、関係者は天気にヤキモキされることでしょう。もしも2試合との中止にでもなれば、地方球場の場合は予備日なんてありませんから興業的には莫大な損失になってしまうわけで我が事と思うと怖すぎる・・・まさに神頼み!

比べるにはあまりにも何ですが、地域の運動会ですらテントや椅子の手配やら弁当の依頼で、小雨模様だと開催するか中止にするかで相当に頭を悩ますのに、数万規模のビッグイベントになると関わる人数も膨大で、下請けの関係者の数ももの凄いことになるはず。そんなところに気持ちがいってしまうのは、住宅業界での同じような黒子的立場である納品業者の気質?!今回とて中止になればどれだけの数の弁当やら飲食品などのなま物が廃棄されてしまうのかと思うと、貧乏性の心が騒ぎます。

まあそれは置いといて、少し早めに松山を出たため試合開始までまだ時間があったので、その時間を利用して、今までは入れていなかった球場の外野スタンドの内にある『甲子園歴史館』に行ってみることにしました。年に1、2回しか球場に行かない地方の阪神ファンでありながら、しっかりファンクラブには入っておりますので、この種の情報だけはガッツリ把握しておりまして、何が展示してるかなども分かっていて、いつか行ってみたいと思っていたので、これも雨のお陰と気持ちを切り替えて入館。続く・・・




福井県あわら市にゆかりのある、元阪神タイガース小林繁投手の話の続き・・・。昭和40年代世代にとっては、若かりし頃の明石家さんまがその形態模写で小林投手のサイドスローの投球フォームを真似ていたのが懐かしく思われると思います。当時誰もが物真似をしたものです。江川との空白の一日によって阪神に緊急トレードされた小林投手には、その潔さから巨人から乗り換えたファンもついたり、もともと細身で甘いマスクに人気があったのですが、メディアも「悲劇のヒーロー」に仕立て上げたものだから更に人気沸騰!

阪神にはONという巨大な壁に挑む村山実という名投手がいて、全身を使って投げるそのダイナミックなフォームから、『人間機関車』と呼ばれた陸上長距離選手のエミール・ザトペックにちなんで『ザトペック投法』と呼ばれました。村山実のキャラクターと相まって悲壮感が漂うと形容されましたが、阪神に意識して巨人相手に闘志むき出しで投げる小林繁から感じたのも同じような悲壮感だったにかもしれません。小林繁はその後も5年にわたりコンスタントに2桁勝利をあげるものの1983年に惜しまれつつ引退を決意します。

阪神を引退後、一時は参議院に立候補するも落選。バブル崩壊の追い打ちもあって、経営していた不動産業や飲食店なども経営が悪化し大きな借金を抱えることに。その後近鉄で投手コーチなど経て一旦野球界を離れるが、かつてのチームメイト川藤幸三の紹介で福井県あわら市のゴルフ場支配人を務めます。これがあわら市とのご縁。その後、多額の借金問題で自己破産。紆余曲折を経て2010年に日本ハムの一軍投手コーチとして招聘されるも、その年のキャンプ直前に倒れ、心筋梗塞で帰らぬ人となってしまったのです。享年57歳。

なかなか波乱万丈の人生であってようです。スポットライトの当たるプロ野球の一流選手として世間の注目を集めることができるのは、長い人生の中でほんの一瞬。スポーツ選手にとっては、現役時代の数倍も長い引退後を生きなければなりません。スポーツ選手よりもはるかに現役寿命の長い材木屋にとって、50歳なんて鼻たれ小僧もいいところですが、同世代の中日の山本昌投手も引退して、いつか自分にも訪れる「引退」する日の事も考えてみたりしていたところで福井に到着。あ、ちなみに山本昌投手入団時の総理大臣は中曽根康弘・・・昭和は遠くになりにけり。




福井県あわら市の『金津創作の森』に来たもうひとつの目的は、『21世紀近代美術館』の時にも書きましたが、ミュージアムショップに商品を売り込むための市場調査の一環でもあります。こちらにも小規模ながらミュージアムショップがありました。販売されているものが陶器などが中心だったので購入することはなかったのですが、どういうタイプの美術館にはどういう形態のショップがあって、どういう商品を販売されているか、自分なりに調査中ですが、木の商品って相性は抜群なので、可能性はかなりありそうです。

この後は、福井市に移動してようやく、この旅の本来の目的である日本木青連の全国大会に参加することになるのですが、折角ここまで来たのだから、あわら市と何かご縁はないか、移動中の電車の中で考えていました。すると福井県出身の有名人の中に、プロレスラーの天竜源一郎(ここでは割愛)と元阪神タイガースの川藤幸三の名前が!お二人ともあわら市ではないものの、スポーツ新聞を読んでいたら「あわら市」と「川藤幸三」という名前が並んでいたことを思い出しました。それらを結びつけるのは、1979年に起きたあの『空白の一日事件』!

今更説明するまでもないでしょうが、若い人のために簡単に説明しておくと、巨人入りを熱望していた時の怪物・江川卓(高校時代に阪急、大学時代にクラウンのドラフト指名を蹴っている)が、巨人と「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行したが、これは無効とされ、それに反発した巨人はドラフトをボイコット。ドラフトで競合の末、阪神が正式に江川の交渉権を獲得した。その後、一旦阪神と契約を交わし、その日のうちにトレードを発表。

そのトレード相手となったのが、当時巨人投手陣の主軸のひとりであった細身のサイドスロー・小林繁。キャンプのために宮崎行きの飛行機に乗ろうとしていた小林は、そこで球団関係者からトレードを聞かされる。そして世紀のトレードが行われ、江川は巨人、小林は阪神のユニフォームを着ることになる。「請われて阪神に行くのだから、同情はされたくない」と言った小林は一躍「悲劇のヒーロー」となり、その年の対巨人戦8勝負けなし、22勝で最多勝、沢村賞獲得と結果を出して男の矜持を見せたのである。それから年月は流れ・・・。




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