森のかけら | 大五木材


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3月に四国中央市のまなべ商店さんで開催したイベントでファイナルを迎えた『おとなの部活動/えひめのあるうれしい日』ですが、本日はその打ち上げ。どちらが目的かすらも分からないほどに、会場をどこでするかということだけで大いに盛り上がり、あちこち候補地が上がったものの最終的に松山市内のホテルに決定。3月で5年間続いたこの活動にもひと区切りがつきました。なのであくまでもお題目としては『おとなの卒業式』。こういう際には誰一人欠けることなく必ず全員が揃うというのがおとなのおとなたる所以。

普段の打ち上げでは途中で帰るメンバーも、腹をくくって飲めるようにそのままホテルに宿を取るなど準備も万端。さあ飲むぞと勢い勇んで会場に赴くと、驚きのオープンスペースのホール。ただでさえ、地声が大きく、我れが我れがと他人の話にかぶせていくことが持ち味のわれらおとなメンバーにとってこのオープンスペースはかなり忍耐を強いられることになるのでは!いやいや我々も良識のあるおとなとして最後ぐらいはシックに料理を楽しみながら、静かに思い出を振り返りましょう・・・化けの皮が剥がれるのにそう時間は必要なかった!

他のお客さんが引き上げるのに呼応するかのように徐々にわれわれのボルテージもあがり、いつもの豪快な笑い声に包まれました。おとなの部活動、こうでなくっちゃ!当然そこだけでは飲み足らず、その後はみんなで道後の町に繰り出すことに。4月の平日の夜という事もあって、道後の夜はひと気もまばら。観光にやって来た一団という体で、地元とおぼしき方に撮影を依頼し、閉店前の道後伊織店にも乗り込み店頭で大騒ぎ。さあ夜の道後で飲みなおそうぜと酔った一団が町を徘徊。周囲からはさぞ異様な集団に見えたことでしょう。

三澤厚彦さんの巨大なクマの前でこれが木彫りで無いのだこうだとグダグダ、昨年夏にオープンした道後温泉別館 飛鳥乃湯泉の前でふろに入るわけでもないのに料金がどうだのお湯の質はどうだのグダグダ、初めて愛媛にやって来た観光客という設定のコントが長引きすぎて、辿り着いた頃には目的の店は閉まっておりました。それでは泊まっているホテルの一室に持ち込もうということになってコンビニで飲み物、食べ物を文字通りのおとな買い。破れんばかりにパンパンに詰め込んだビニール袋を持って部屋に。

するとその部屋の鍵が見当たらないというお約束のコントをひと通りやり終わってようやく2次会が開催。宿泊者は浴衣に着替えていて、気分はおとなの修学旅行。もうすぐ枕投げでも始まらんばかりのノリで、ほとんど過去の思い出を振り返ることもなく、話題が次から次へと移ってあっという間に1時間、2時間・・・。そもそもは、ものづくり中小企業者の団体が、中長期的な戦略を描き、異分野の業界と連携し新たな需要開拓に取り組む事業というファンドでしたが、このチームワークは恐らく今後末永く語り継がれていくであろう、阿吽の呼吸で結び付いた奇跡の連携!卒業後もすぐに再会(再開)しそうで怖いほど!楽しすぎるご縁と素晴らしき仲間に感謝。




ツガ(栂)の学名は、Tsuga sieboldii(ツガ シーボルディ)シーボルトがその種を登録したことからその名が刻まれています。宇和島とは直接関係はないものの、伊達宗城が庇護した高野長英の師匠がシーボルトという事で、私の中ではそれらすべてが流れの中で繋がっています。学生時代あれほど覚えるのに苦労した歴史上の人物や出来事が、今は面白いように頭に入って来るのですが、考えてみれば学生の頃はその表層だけをみてすべてを記号としてしかみていなかったのですが、今はすべてが興味の対象となっています。

好奇心とは偉大なり!さて話を戻しますが、伊達宗城は、テレビの大河ドラマで注目を浴びている薩摩藩主・島津斉彬山内容堂(土佐藩主)、松平春嶽(福井藩主)らと交流を持ち『四賢侯』と呼ばれ、老中・阿部正弘に意見を求められるほどの存在となります。しかし阿部正弘死後、井伊直弼が大老に就任すると、13代将軍徳川家定の後継者問題で、一橋慶喜を推す四賢侯と、徳川家茂を推す直弼の間で対立起こり、安政の大獄によって宗城は一橋派もろとも排除され隠居謹慎を命じられることとなります。

まったくの余談ながら宗城と交流のあった島津斉彬公が御祭神として祀られているのが、鹿児島市の照国神社で、それが私の名前のルーツ。その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、宗城の謹慎も解かれるのですが、後継者に恵まれなかった宗城は謹慎期間中に養子を迎え、藩主の座を譲り75歳まで生きて明治15年に亡くなります。そんな宇和島伊達家の心の癒し場所であった天赦園は、伊達家の家紋「竹に雀」にちなんで、20種もの竹や笹が植えられています。唐竹、黒竹、淡竹(はちく)、蘇芳竹(スホウチク)などなど。

竹といえば銘木の世界では、アクセントを加えられる素材として広く使われています。弊社でも以前はよく使っていました。床の間の装飾としてだけでなく、商業店舗などでも見切りや意匠的に使っていたのですが、こういうものって身近に実物があってこそ。実物を見て、サイズや触感を確認してイメージを膨らませるもの。またどうしてもなければならないというわけでもないので、最近は疎遠になっていましたが、こうして様々な形状の竹を見ていると使いたい衝動に。何気なく訪ねた天赦園ですが、木との関わりも感じながら歴史を振り返られ大満足。




ある日曜日、早朝から息子の部活の試合の送迎で宇和島市へ。朝からの試合という事で朝の8時前に到着。試合後にまた迎えに来ることになったので、それまで時間をつぶすことになり、今まで行ってみようと思いながら機会がなかった『天赦園(てんしゃえん)』に向かいました。ちょうど8時から開園だったので、そのまま中へ。天赦園は、宇和島藩七代藩主、伊達宗紀(むねただ)が隠居の場所として建造した池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園です。伊達宗紀は、かの独眼竜・伊達政宗の血を継いでいます。

愛媛以外の方だと、なぜあの独眼竜の子孫が愛媛に?と思われるかもしれませんが、伊達政宗の長男・伊達秀宗は側室の子供であったため、家督を継ぐことが出来ませんでした。かの大坂冬の陣の際に、父の政宗と共に参戦し、その武功に対して徳川家康から伊達10万石を与えられ、秀宗が初代藩主となりました。その七代目の藩主が伊達宗紀です。それが今からおよそ400年前の1615年のこと(元和元年)。幼少の頃から豊臣や徳川の人質として過ごし、長男として生まれながら宇和島10万石に転じられた宗紀の心情いかばかりか。

その秀宗から数えて七代目の藩主が伊達宗紀で、宗紀は長寿で「百歳長寿の大名」と知られていますが、その晩年の隠居場所として建造したのが天赦園です。名前の由来は伊達政宗が晩年に詠んだ漢詩の「馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん
」の一節「天の赦(ゆる)所」から命名。ここからは余談ですが、その宗紀は後継者に恵まれなかったので、養子を迎えたのですが、それが後の八代目藩主、伊達宗城(むねなり。この宗城が進取気鋭の人物!

ちなみに政宗公の漢詩の意味ですが、「馬上少年過馬上少年過ぐ…馬に乗って戦場を駆け巡っているうちに少年時代は過ぎ去って行き)世平白髪多(世平らかにして白髪多し…世の中が平和になった今、頭には白髪が目立つようになった)残躯天所赦(残躯天の許すところ…天が許してくれた老い先短いこの身体)楽是如何(楽しまずして如何せん…楽しまなくてどうするのか)。」つまり若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世の中が平和になって自分にも白髪が増えた。天が与えてくれた余生を楽しまずしてどうしようか、という内容だそうです。伊達で鳴らした独眼竜、粋でございます!

伊達宗城を迎えた宇和島藩は、わずか10万石という小藩ながら、殖産興業と富国強兵策を藩内に実施するなど宇和島の発展に尽くしました。進歩的な考えを持っていた宗城は、当時思想犯として幕府から目を付けられていた有能な人物たちも宇和島に招き入れて庇護していました。そのうちのひとりに、高野長英がいます。高野長英は医者・蘭学者で、かのシーボルトの鳴滝塾で蘭学を学び、その一方で兵書の翻訳や砲台の設計なども行っていました。余談ながらシーボルトといえば、『栂(ツガ)』の学名にその名が冠されています




弊社は交通量の多い県道に面していることもあって、長年お付き合いしている工務店さんや大工さんの他にもさまざまな方がご来店されます。「一般の方歓迎」などの看板などを掲げていないためか、「一般の者にも売ってもらえますか?」とおそるおそる訪ねて来られる方もいらっしゃいます。看板でも掲げたらもっと一般の方も来るのに、と仰っていただく方もいらっしゃいますが、なにせ少人数でやっていますのであまり沢山お客さんが来られても対応できなくなるので、ほどほど忙しいぐらいでちょうどいい感じ。

初めて来られる方にしてみれば、卸しかしたないのでは?ある程度まとめて購入しないと、少量は無理なのでは?などと不安もあると思いますが、『業界』という見えざる結界を勇気を出して乗り越えてこられた方は、それ以後は気軽にご来店され、常連さんとなっていただいています。更にその方が木工に興味のある友人を誘って連れてきていただくなど、ありがたい連鎖も出ていますが、そんな木工ファンたちの職業もさまざま。定年退職後好きだった木工をしたいという銀行マン、趣味で木工をしたい主婦、学生、外国の方等々。

その中には、その技術がプロの域に達していらっしゃる方も多く、木材の嗜好もプロ級という人もいます。こちらの神主さんは倉庫の中にある忌まわしい過去のある木材にお祓いをしてもらっているわけではありません。倉庫の中でお好みの木を探されているところ(ポーズにはやらせ感も漂いますが)。好きな木を選ぶのに 精進潔斎して、白装束でご来店された・・・わけではありません。たまたま弊社のすぐ裏手で地鎮祭が行われていたので、お勤めが終わった後に「仕事着」のままご来店されたというわけです。

こちらの神主さんの正体は、出雲大社松山分祠の神主さんであり、木工作家(ヤマドリ工房)の西嶋孝仁さん。独自のテイストで緻密な造りの木工品を作られています。お求めになる木材もこだわりがあって、その選択眼もプロ並み!当日は数枚の板材をご購入いただいたのですが、是非この機会にと、以前にブログでアップしましたが、200年生のホルトノキから出てきた五寸釘をお祓いしていただくことに。呪い釘だったか定かではありませんが、ずっと気になっていてこれで安堵しました。これも結界を超えた連鎖なのかも?!




この数日間、マツの話をしてきましたが、私の中には『木が木を呼ぶ、木が人を呼ぶ』という法則がありまして、特定の木ばかり触っていると同じような木がやって来たり(具体的には製材や商社からオファーが入ったり、その木で注文が舞い込んで来たり)、それに関連した人がやって来たりするというもの。例えば九州の木を加工したり、ブログで触れていると、九州の方がやって来られたり、九州から飛び込みの注文が入ったり。それで今回久し振りにマツを扱っていると、北海道から『トドマツ王子』が不意にご来店!

そのための長いフリだったわけではなくて本当にたまたま偶然なのですが、日本木材青壮年団体連合会(木青連)に在籍していた頃にお世話になっていたトドマツ・エゾマツ専門製材『㈱ヨシダ』の吉田良弘社長が、北海道は苫小牧から突然のご来店。たまたま愛媛で木材研修会があったとの事で、わざわざ立ち寄っていただきました。吉田さんとはほぼ同世代ですが、私は総務委員会の雑用で出向している身、それにひきかえ吉田さんはバブル崩壊後混乱していた北海道の木青連を孤軍奮闘で支え、全国の会長まで務められました。

愛媛と北海道でお取引があるというわけではないのですが、そこは全国にネットワークのある木青連の醍醐味。私も同様に全国のどこかに出張あらばその地のOBや現役会員を頼って訪ねたりさせていただいていますが、そういう意味では操業してからのほうがその恩恵にあずかっています。吉田さんの会社では主にトドマツを製材されていますが、社歴も70年を超える老舗で、年間に60,000㎥もの原木を消費する大型工場。なのでうちのような零細弱小材木店に来られたとて、何もみるべきものはないのですが。

そこを繋いでくれたのは木青連のネットワークと『適材適所』。昨年末に20年の区切りで終了したアナログ通信でしたが、出会った方々には毎月送らせていただいていて、吉田さんのお母さんも読んでくださっていたそうで、「母が楽しみにしている」と声をかけてもらうのは励みでした。木工品を集められるのがご趣味だそうなので、いつの日にか私も苫小牧にお邪魔させていただければと思っています。そんな時に、普段はほとんど無いマツの木が山積みされていたというのは、マツがトドマツ王子を呼んだとしか考えられない!続く・・・




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