森のかけら | 大五木材


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大五木材の朝は早い。早朝から仕事を始めていた大工さんに合わせるために、朝は7時前に社員が出社するので、私はそれより先に事務所の鍵を開けなければならないので、6時30分には会社に行かなければなりませんでした。若い頃はそれが苦痛で、独身の頃に深酒でもした日には朝起きれなくて、既に社員が出社していて倉庫で待ってくれていたこともしばしば。当時は大工さんたちが「棟梁」としてバリバリに活躍されていた頃で、会社を開けるとすぐに電話が鳴ったり、大工さんの軽トラがやって来たりと、早起きは必須の状況でもありました。

それから年月が経ち、大工さん自体が木材を持たない(工務店が木材を手配するように移行)ようになると、早朝から材木屋にやって来る大工さんも減ったのですが、今度は早朝から木材を積んで遠方にリフォーム作業に行く業者の方が増えて、時には玄関のカーテンを開けると、門の外に軽トラが停まっていたこともありました。なのでやっぱり朝早く店を開ける必要がありました。それからまた月日が流れ、早朝より営業するプロ対応の大型のホームセンターが登場すると、そういう人たちはそちらに流れていきました。

その後、すっかり木材の潮流はプレカットになり、個人の大工さんが木材を仕入れることが激減すると、早朝から訪れる人はいなくなったのですが、その頃からの長い商習慣と、歳をとったら朝が早くなる、朝の混雑を避けたいので早く通勤したいなどの理由で、やっぱり今も朝早くから店を開けています。昔に比べると少しだけ遅くなって、今はだいたい6時45分ぐらいに開店していますが、さすがにこの時期で天気も悪いと朝はまだ真っ暗。月明かりに照らされながら門を開けるという事もあります。

門が古いので開閉時にもの凄い音をするため、近づいてくる足音に気づかず、暗闇からすっと人影が現れたりしてドキッとすることがあります。それもこの季節ならではのことで、というのも2月の上旬にこの辺りがコースとなる『愛媛マラソン』が開催されるため、出場される選手たちが早朝からトレーニングしているのです。毎年、このドキッを経験すると、マラソン大会の季節になったなあと思うのですが、こうして朝暗いうちから重たい門を開け続けて30年。あとどれぐらい続けることが出来るのだろうかなんて考えます。




道後REBORN』の文字が刻まれた巨大なウォールアートパネルには「火の鳥」以外にもさまざまな絵が描かれています。その中に大きな角材を上下から大鋸で板材に挽き割っている絵がありました。構図から、葛飾北斎が『富嶽三十六景』の中で描いた有名な「遠江山中」がモデルになっていると思われます。木挽きが前挽き鋸を使って力強く製材している姿が描かれていますが、北斎の絵は江戸時代後期の木挽きたちの作業風景で、タイトルから浜松市の天竜辺りが舞台だ思われるので、挽いている木は恐らくヒノキスギ

道後温泉そのものは日本の神話にも登場するぐらい歴史が深く、一説には3000年とも言われていますが、道後温泉本館は1894年(明治27年)に落成されたとあるので、その歴史は約120年あまり。その当時には製材機も導入されていたと思われますので、まさか木挽きが挽いたような材は使われてはいなかったでしょうが、さぞ立派な材が使われたことでしょう。寺社仏閣などとは違いそもそもが営業目的の公衆浴場ですから、人が触れる頻度のその比ではなく床も柱もかなり摩耗していますが、木の経年変化から歴史が窺えます。

新年会が終わってからもう一度本館を訪れると、本館北面で行われているプロジェクションマッピング「道後温泉×ネイキッド MESSAGE-火の鳥、到来-」の最後の数分間にギリギリ間に合いました。さすがに正月明けの週末という事で観光客の数は多くはありませんでしたが、人だかりが出来ていてあちこちで歓声も上がっていました。絢爛な光のショーに、おお~っとはなったものの、いつも見ていた「暗闇の中に赤く灯る振鷺閣のギヤマンガラス」の油断していると異世界に引き込まれそうになる風情が好きな私には少し騒々しく感じました。

工事期間中は本来の正面玄関は閉鎖されていて、火の鳥が描かれた日除け幕が垂らされていますが、夜になれば灯りがともるようで、観光客がその前で記念写真を撮っていました。7年という長期工事に伴う観光客の減少を食い止めようといろいろ工夫をされているみたいですが、そこに佇むことに価値があるものに手を加える難しさを感じました。全国の有名な温泉が束になっても敵わない、唯一無二の『歴史』という道後温泉の本来の魅力に厚化粧が施されているようにも思えたのですが、不死鳥のごとく生まれ変わってもらいたいです。




松山が誇る観光の目玉・道後温泉本館は道後温泉本館は平成31年1月15日から、営業しながらの保存修理工事に着手しました。これから2期7年に及ぶ大規模な耐震工事が行われます。といっても部分的に分けて工事をするので、工事期間中も営業は行われています。その道後温泉の再生を手塚治虫先生の『火の鳥』が見守るとのコンセプトのもと、火の鳥などが描かれた巨大なウォールアートパネルが道後温泉を覆っています。テレビなどでは見ていたもののなかなか機会がなくて実物を観れてませんでした。

道後で工務店さんの新年会があったので、早めに出かけて様子を見に行きました。湯神社の駐車場から臨む道後温泉本館。いつもはここからのアングルだと、朝に刻み太鼓が叩かれる振鷺閣(しんろかく)とその上に乗っている白鷺が見れるのですが、巨大なパネルにすっぽり囲われています。日本で唯一の皇室の専用浴室・又新殿(ゆうしんでん)のある銅板葺の建物がある東面に作業用の出入口が見えます。工事期間中入浴するにはこの写真でいうと裏側(大きなホテルが建っている面)にあたる北側が玄関となっています。

パネルの大きさは最頂部の高さ20m、周囲100mという事ですが、実際に観てみるとかなりデカい!ちょうど西日が火の鳥の顔のあたりにあたってなんとも神々しい雰囲気がありました。姫路城が平成の大修理をしている時にもテントに覆われた姫路城を観に行きましたが、こういう『特別仕様』も面白いものの、それは公示前の姿も知っているし、工事終了後の姿も観れるであろうから思う気持ちで、初めて観光に来られて、今後もう来られないかもしれない人はどう思われるのだろう?それによっては道後温泉の印象も随分と違ったものになりそうです。

現在仮設の入口となっている北側の2階部分には両羽を広げた火の鳥の姿があります。テントパネルからこのオブジェからポスター、ビデオ、入場券とここにもそこにも火の鳥。私は手塚先生が大好きで、宝塚にある記念館にも何度も訪れているし、その作品もほとんど読んでいますので、大好きな手塚先生の作品が(今まで何の接点もあるとは思ってもいなかった松山のこの地で)こういう形で身近で接することが出来るのはとても嬉しい。手塚先生も没後30年が経ち、今の子どもたちにとってはもはや歴史のひとという感覚なのかもしれませんが。

松山市は、長期にわたる工事期間を「普段は目にすることの出来ない特別な期間」として捉え観光資源として、東京のポニーキャニオンと手を結び『道後温泉の再生物語』を盛り上げていきたいとということで、手塚先生の『火の鳥』がコラボパートナーに選ばれたそうです。なんでもかんでも「坊ちゃん」頼りより全然いいと思うのですが、言ってしまえばこれも借り物。本来ならば地元にあるもので展開出来ればもっとよかったと思ったりもしますが、そこまでのパワーコンテンツも無いし・・・ちょっと複雑な気持ち。




紫電改展示会の植樹されている『陽光桜』を作出された高岡正明さんの事は、ここに来て初めて知ったのですが不思議なご縁を感じます。高岡さんは第2次世界大戦中に学校教員だったそうですが、戦後になって、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強いソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾原産の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて『陽光桜』を誕生させたそうです。

来館した時にはサクラの季節ではありませんでしたが、春に見事な花を咲かせている写真がSNSに数多くアップされています。その鎮魂の陽光桜を作出された高岡さんは伯方塩業の初代社長で、私は面識もありませんが、現在の伯方塩業の石丸社長は同じ町内に住んでいらっしゃていて、不思議なつながりを感じます。それと同時にかの戦争がどれほど多くの人の心に深い傷跡を残したのかと思うと心が痛みます。是非今度はサクラの季節にも来てみたいと思っています。

紫電改展示館があるのは「南レク馬瀬山(ばせやま)公園」という場所にあって、そこには「こども動物園」や「宇和海展望タワー」なども併設されています。展望タワーは円形の客室が緩やかに回転しながら地上107mまで上昇します。海抜260mからは、足摺宇和海国立公園のリアス式海岸の絶景が一望できます。この辺りは隆起海岸の断崖などが特徴的で、亜熱帯植物が生息していて南国ムード溢れるエキゾチックな独特の風景を作り出しています。

当日は天気がよかったので、恐らく上まで昇れば九州の山並みまで見えたと思うのですが、さすがにそこまでは時間がなかったので、こちらも次回にお預けです。山の形は海の中にまで続いていて、山を見れば海中の地形が分るので、どういう魚がいるのか分ると、地元の漁業関係の方がおっしゃっていましたが、特徴的な海岸景観を持つ宇和海には実に多彩な魚が生息しています。なんとその数は600種を超えるとか!魚だけでなく植物も多彩ですが、このあたりの材はほとんど集めらていないので、これからもっと注目していきたいと思っています。

 




ここに展示されている紫電改は、海底で発見されていた時にはご遺体や遺品も見当たらず誰が操縦していたのか不明ですが、この機がどこから飛び立ちどういう経緯で海に不時着したかは分っているようです。真珠湾攻撃の時、当時の海軍大佐源田実司令が、海軍の優秀なパイロットを全国から松山基地に集めて343空剣部隊を編成させました。昭和20年3月に呉軍港に狙いを定めて350機のグラマン機が襲撃してきました。それを迎えったのが松山基地から出撃した343空剣部隊の54機の紫電改。物量において圧倒的不利な状況の中で敢然と立ち向かい大きな成果をあげました。

その事からその後しばらく米軍は松山には近寄ることがなかったのですが、戦況の悪化に伴い部隊が鹿児島に移転すると、松山も無差別空襲を受けて大きな被害が出ました。当時世界最強の航空部隊とも言われ日本の空を守っていた精鋭部隊がここ松山にあったのは案外知られていない話です。そんな343空剣部隊が所属する松山航空基地のジオラマもここ展示してありました。そんな松山基地は現在の松山空港となっています。松山海軍航空隊の活躍については石碑や碑文に刻まれていますが、もう少し語り伝えられていい話だと思います。

松山空港の近くを走っていると、畑の中にコンクリートで出来たかまぼこ型のこういう構造物を見かけます。これは、人や装備、物資などを敵の攻撃から守るために帝国海軍が作った掩体壕(えんたいごう)という施設です。紫電改なども空爆から免れるため格納されていたすです。松山航空基地になる前は予科練の飛行場で、周辺には60基を越える掩体壕があったそうですが、戦争でほとんど消失。現在残っているのは3基ですが、そのうちの1基は松山市有形文化財に指定されています。御荘の紫電改はその343空剣部隊に所属していました。

終戦間際の昭和20年7月24日、土佐沖に進攻してきた敵機動部隊艦載機、戦爆連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。これを迎撃するために大村基地(長崎県大村市)から21機の紫電改が発進。豊後水道上空で米軍機と交戦し、わずか10分足らずで敵機16機を撃墜しました。しかしこの交戦で紫電改6機が基地に未帰還となり消息が絶えました。そのうちの1機がこの引き揚げられた紫電改だと考えられています。そのため展示館には、未帰還の6機を操縦した方全員の写真も一緒に展示されています。続く・・・




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