森のかけら | 大五木材


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ここに展示されている紫電改は、海底で発見されていた時にはご遺体や遺品も見当たらず誰が操縦していたのか不明ですが、この機がどこから飛び立ちどういう経緯で海に不時着したかは分っているようです。真珠湾攻撃の時、当時の海軍大佐源田実司令が、海軍の優秀なパイロットを全国から松山基地に集めて343空剣部隊を編成させました。昭和20年3月に呉軍港に狙いを定めて350機のグラマン機が襲撃してきました。それを迎えったのが松山基地から出撃した343空剣部隊の54機の紫電改。物量において圧倒的不利な状況の中で敢然と立ち向かい大きな成果をあげました。

その事からその後しばらく米軍は松山には近寄ることがなかったのですが、戦況の悪化に伴い部隊が鹿児島に移転すると、松山も無差別空襲を受けて大きな被害が出ました。当時世界最強の航空部隊とも言われ日本の空を守っていた精鋭部隊がここ松山にあったのは案外知られていない話です。そんな343空剣部隊が所属する松山航空基地のジオラマもここ展示してありました。そんな松山基地は現在の松山空港となっています。松山海軍航空隊の活躍については石碑や碑文に刻まれていますが、もう少し語り伝えられていい話だと思います。

松山空港の近くを走っていると、畑の中にコンクリートで出来たかまぼこ型のこういう構造物を見かけます。これは、人や装備、物資などを敵の攻撃から守るために帝国海軍が作った掩体壕(えんたいごう)という施設です。紫電改なども空爆から免れるため格納されていたすです。松山航空基地になる前は予科練の飛行場で、周辺には60基を越える掩体壕があったそうですが、戦争でほとんど消失。現在残っているのは3基ですが、そのうちの1基は松山市有形文化財に指定されています。御荘の紫電改はその343空剣部隊に所属していました。

終戦間際の昭和20年7月24日、土佐沖に進攻してきた敵機動部隊艦載機、戦爆連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。これを迎撃するために大村基地(長崎県大村市)から21機の紫電改が発進。豊後水道上空で米軍機と交戦し、わずか10分足らずで敵機16機を撃墜しました。しかしこの交戦で紫電改6機が基地に未帰還となり消息が絶えました。そのうちの1機がこの引き揚げられた紫電改だと考えられています。そのため展示館には、未帰還の6機を操縦した方全員の写真も一緒に展示されています。続く・・・




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