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| 昼休みを紫電改展示館で過ごしたので、少し遅めの昼食を、県道沿いの飲食店に入ったところ、たまたま隣の席に座った二人連れのうち、年配の方が話しかけてこられました。「おたくら材木屋さん?」私たちが大五木材の社名の入った3t車から降りて来るところを見られたので、木工好きで話好きな人かなと思って、こちらも軽い気持ちで受け答えしていると、この人が実はとんでもない方だったのです。ご自身は高知県の大工さんで以前は松山にもよく仕入れや現場で来ていたとのこと。今日は体調がすぐれないので病院に行った帰りだという事。そんななんでもない話が続いていました。 |
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まあ、この辺りの方だとご縁もなさそうだけど折角なんで名刺でも交換させていただこうとしたら、その人が「大工とは別にこういうこともやってるんよ」とある名刺を差し出されました。その名刺に書かれていて肩書は、「陰陽師」!知らない人がいらっしゃるかもしれないので軽く説明すると、陰陽師(おんみょうじ)とは、古代日本の律令時代に陰陽道に基づいた呪術や占術を行い、国の祭祀を執り行ったり、未来を占ったり、願望成就や厄災祓いを行ったりする職に就いていた人を指します。後には陰陽道に関する行事をつかさどる職の人。後に、民間にあって加持祈禱(じきとう)を行う者もそう呼ばれるようになります。平安時代の陰陽師・安倍晴明は、映画や小説にもなっていてよく知られた存在です。 |
| 小説や映画では陰陽師が、呪文を唱えれば超人的な能力を発揮能力者として描かれることが多いので、こういう話ってどうしても眉唾な話として語られることが多いのですが、私はそういう話が大好きなので名刺を見て一気にテンションが上がりました!現代においても陰陽師の肩書を持つ人がいらっしゃる人がいるのは知っていたものの、実際にこうしてお会いするのは初めてだったので、木の話の時以上に興奮しながら、矢継ぎ早に質問を浴びせ続けました。その方の家がもともと高知で由緒ある神社で、跡継ぎになり修行をして陰陽師になられたのだとか。 |
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それで大工にもなりたかったので、大工兼陰陽師となり、その関係で神社などの建築にも数多く携わってこられたそうです。それほど信仰心が無いような人でも、家を建てる時には風水や鬼門を気にされるように、昔から日本人はここ一番という大切な時は見えざる神力に頼ってきました。なので陰陽師が大工さんで家を建てるというのは理に叶っているし最強の組み合わせだと思います。にも関わらずどこか怪しげに聞こえてしまうのは、やはり小説や映画の超人的能力を持つ陰陽師というイメージのせいだと思われます。いろいろと実に興味深いお話を聞かせていただきました。続く・・・ |
| 紫電改展示会の植樹されている『陽光桜』を作出された高岡正明さんの事は、ここに来て初めて知ったのですが不思議なご縁を感じます。高岡さんは第2次世界大戦中に学校教員だったそうですが、戦後になって、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強いソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾原産の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて『陽光桜』を誕生させたそうです。 |
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来館した時にはサクラの季節ではありませんでしたが、春に見事な花を咲かせている写真がSNSに数多くアップされています。その鎮魂の陽光桜を作出された高岡さんは伯方塩業の初代社長で、私は面識もありませんが、現在の伯方塩業の石丸社長は同じ町内に住んでいらっしゃていて、不思議なつながりを感じます。それと同時にかの戦争がどれほど多くの人の心に深い傷跡を残したのかと思うと心が痛みます。是非今度はサクラの季節にも来てみたいと思っています。 |
| 紫電改展示館があるのは「南レク馬瀬山(ばせやま)公園」という場所にあって、そこには「こども動物園」や「宇和海展望タワー」なども併設されています。展望タワーは円形の客室が緩やかに回転しながら地上107mまで上昇します。海抜260mからは、足摺宇和海国立公園のリアス式海岸の絶景が一望できます。この辺りは隆起海岸の断崖などが特徴的で、亜熱帯植物が生息していて南国ムード溢れるエキゾチックな独特の風景を作り出しています。 |
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当日は天気がよかったので、恐らく上まで昇れば九州の山並みまで見えたと思うのですが、さすがにそこまでは時間がなかったので、こちらも次回にお預けです。山の形は海の中にまで続いていて、山を見れば海中の地形が分るので、どういう魚がいるのか分ると、地元の漁業関係の方がおっしゃっていましたが、特徴的な海岸景観を持つ宇和海には実に多彩な魚が生息しています。なんとその数は600種を超えるとか!魚だけでなく植物も多彩ですが、このあたりの材はほとんど集めらていないので、これからもっと注目していきたいと思っています。 |
| 私たちが紫電改展示館を訪れたのが平日の昼間だったので誰もいないのではないかと思ったら、駐車場に九州ナンバーの車が停まっていて、中に入ると老夫婦が展示されている資料を食い入るようにご覧になって、奥さんに何か説明をされていたので、もしかしたら関係者の方だったのかもしれません。現在、紫電改は世界に4機しか残っていないといわれていますが、日本では唯一ここ愛南町に「平和のシンボル」として永久保存されているこの1機のみということで、非常に貴重なものなのです(残りの3機はアメリカにあります)。 |
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兵庫県の加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡地には紫電改の実物大模型が展示されているそうですが(一般公開は日時限定)、大戦中はそこに川西航空機姫路製作所鶉野工場(現・新明和工業)があり、「紫電改」など500機余りの戦闘機が組み立てられ、試験飛行を同飛行場で行っていた事から、実物大の紫電改の模型が制作されたようです。一度そちらも見てみたいのですが、現在、滑走路跡地は加西市で管理され、他の一部は神戸大学農学部の敷地として利用しているとのことで、余計にご縁を感じてなりません。 |
| この紫電改と零戦がよく混同されますが2機は別物です。先に作られたのが零戦で、設計したのはジブリの映画『風立ちぬ』ですっかり有名になった三菱重工業の堀越二郎。1940年(皇紀2600年/神武天皇即位を紀元とするする日本独自の紀年法)日本)に零戦が制式採用となったため、皇紀の末尾数字を取って零式と呼ばれるようになりました。アメリカでは「ゼロファイター」と呼ばれたことから、「ゼロ戦」の呼び名が有名になりましたが、正式名称は『零式艦上戦闘機』。 |
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太平洋戦争初期には世界最高水準の戦闘機で,戦闘能力に優れた零戦は連合国空軍を震え上がらせたが、徐々に日本が劣勢になってくると零戦に変わる機体が必要となり、本土決戦の切り札として製作されたのが紫電改です。開発を受け持ったのは川西航空機(現・新明和)。つまり三菱重工が作ったのが零戦、川西航空機が作ったのが紫電改ということになります。私にとっての紫電改と言えばちばてつやの漫画『紫電改のタカ』。主人公の滝城太郎は松山市出身で、この343空剣部隊に編入して撃墜王となってゆく話ですが、当時はそんな背景も分らず、ただ戦争漫画としてしか読んでいませんでした。 展示館でも販売されていていましたが、この歳になって読んだら感じるものが随分違うと思います。心から合掌。更に続く・・・ |
| 展示館からは、紫電改が引き揚げられた久良湾が一望できます。今は気持ちのいい風が吹いて、鳥のさえずりが聞こえるこんなのどかな場所の上空でも激しい戦闘が繰り広げられていたと思うとやりきれない気持ちになります。紫電改の碑の隣には、元343剣部隊隊員の方が無き戦友を偲んで献上された『陽光桜』が植樹されていました。春には美しい花を咲かせるそうです。陽光桜というのは、『伯方の塩!』で有名な伯方塩業の初代社長・高岡正明さんが作出された日本原産のサクラの交雑種です。 |
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| ここに展示されている紫電改は、海底で発見されていた時にはご遺体や遺品も見当たらず誰が操縦していたのか不明ですが、この機がどこから飛び立ちどういう経緯で海に不時着したかは分っているようです。真珠湾攻撃の時、当時の海軍大佐源田実司令が、海軍の優秀なパイロットを全国から松山基地に集めて343空剣部隊を編成させました。昭和20年3月に呉軍港に狙いを定めて350機のグラマン機が襲撃してきました。それを迎えったのが松山基地から出撃した343空剣部隊の54機の紫電改。物量において圧倒的不利な状況の中で敢然と立ち向かい大きな成果をあげました。 |
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その事からその後しばらく米軍は松山には近寄ることがなかったのですが、戦況の悪化に伴い部隊が鹿児島に移転すると、松山も無差別空襲を受けて大きな被害が出ました。当時世界最強の航空部隊とも言われ日本の空を守っていた精鋭部隊がここ松山にあったのは案外知られていない話です。そんな343空剣部隊が所属する松山航空基地のジオラマもここ展示してありました。そんな松山基地は現在の松山空港となっています。松山海軍航空隊の活躍については石碑や碑文に刻まれていますが、もう少し語り伝えられていい話だと思います。 |
| 松山空港の近くを走っていると、畑の中にコンクリートで出来たかまぼこ型のこういう構造物を見かけます。これは、人や装備、物資などを敵の攻撃から守るために帝国海軍が作った掩体壕(えんたいごう)という施設です。紫電改なども空爆から免れるため格納されていたすです。松山航空基地になる前は予科練の飛行場で、周辺には60基を越える掩体壕があったそうですが、戦争でほとんど消失。現在残っているのは3基ですが、そのうちの1基は松山市有形文化財に指定されています。御荘の紫電改はその343空剣部隊に所属していました。 |
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終戦間際の昭和20年7月24日、土佐沖に進攻してきた敵機動部隊艦載機、戦爆連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。これを迎撃するために大村基地(長崎県大村市)から21機の紫電改が発進。豊後水道上空で米軍機と交戦し、わずか10分足らずで敵機16機を撃墜しました。しかしこの交戦で紫電改6機が基地に未帰還となり消息が絶えました。そのうちの1機がこの引き揚げられた紫電改だと考えられています。そのため展示館には、未帰還の6機を操縦した方全員の写真も一緒に展示されています。続く・・・ |
| 少し前に、今年も地元の中学生の職業体験の話を書きましたが、実は今年はその他に2つの中学校からも同様の依頼がありまして、内宮中学校と津田中学校から中学生が材木屋に体験学習にやって来ます。いずれの学校とも職業体験を受け入れるのは初めてですが、内宮中学校は会社から数百mの所にあるもっとも近所の中学校。その間がちょうど校区の境なので、うちの子どもたちは数百m先の内宮中ではなく、校区の端っこにあたる数キロ先の鴨川中学校に通いました。遠いと随分と泣きも入りましたがお陰で足腰は鍛えられたみたい。 |
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今回は中学二年の男子ふたり。鴨川中学の生徒はは、うちのこどもたちも卒業生であることや、住んでいるのが同じ校区ということもあってまったく緊張感もありませんでしたが(これは今年に限らず毎年)、内宮中のふたりはかなり緊張していてガチガチ。話を訊いてみたら、ふたりはクラスも違って、話をするのもこの職業体験が初めてという事でした。緊張感あるのも無理はない。鴨中の子たちは、同じクラスの仲の良い友達が来ることが多いのでリラックスしているもの当然なのですが、この緊張感溢れるふたりがとてもまじめに仕事に取り組んでくれて好感が持てました。 |
| 今まで沢山の子どもたちがやって来てくれましたが、まだ中学生ですから将来の仕事に対して漠然として思いしかなくて、材木屋になろうなんて思って大五木材を選んで来たのはわが愚息ぐらい。中には軽いイベントぐらいの感覚で来ている子もいますが、今回のふたりはそもそも互いが親しくないことや、材木屋という場所や環境に慣れていないこともあってか、終始無言で仕事に取り組んでいました。それでも最後は緊張感も解けて木の仕事を楽しんでくれてようです。この後数週間後にまた2日間来てくれます。 |
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流通系の材木屋で一体何を体験させているのだと思われているかもしれません。実際に子供たちに訊いても、チェーンソーで木を伐るとか、家を建てると思っていたようだし、確認にやって来られた先生も作業風景を見て初めて大五木材の仕事を理解されます。子どもたちに体験してもらうのは、従来の『材木屋』としての仕事ではなく、『木のもの屋』としての仕事で、体験する子どもたちも戸惑いがあるかもしれません。きっと今の方向に向かっていなかったら、体験してもらう仕事もなかったし、そもそも職場体験をお受けできていなかったと思います。ここまで辿り着くのに随分遠回りしましたが、いま材木屋としてとても心地いい場所にいます。 |