森のかけら | 大五木材


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父ありて・・・

本日昼過ぎに、かねてより病気療養中であった父が逝去しました。享年74歳でした。長くなりますが、大五木材の歴史と亡き父への思い出を綴らせていただきます。

私の実家は愛媛県西予市野村町というところで、父はその地で「高橋建設」という土木会社を立ち上げました。時は高度経済成長の真っ只中で、私達兄弟の幼い記憶にも日々泥まみれになって帰ってきては食事の間も忙しそうに電話をかける父の姿と、自宅のコタツの上で帳簿をつけながら疲れて眠るこけてしまう母の姿ばかりが残っています。当時は夜遅くまで仕事をしていて、母が現場に差し入れするためにおにぎりを握り、幼い私と兄は手を引かれ現場についていったこともありました。小学生の低学年の頃の作文でも、「もうあまり働かないで僕達と遊んでください」と書いた記憶もあります。仕事が忙しくあまり一緒に遊んだこともありませんでした。子供のころは、たいして勉強も出来ませんでしたが「勉強しろ」と言われた事もありませんでした。そんな事に気が廻らない程に仕事に一生懸命で、また本人もやりがいに溢れさぞ楽しく充実した日々だったのではないでしょうか。お陰で兄弟4人とも大学まで行かせてもらい、自分が働くようになって始めて、両親の偉大さが分かるようになりました。

父は典型的な一昔前の土木屋の親分で、豪快不遜を地で行くタイプでした。周囲からも「いさにぃ(猪佐男兄)」とか「親分」とか呼ばれるような親分肌タイプで、計算にも強く、子どもの頃は何でも出来る「スーパーマン」のような存在に思っていました。体格もよくて、こどもの手では腹回りが抱えきれず、名前通りの猪突猛進の猪のようでした。背中も大きく、風呂に入っても背中を洗うのは一苦労で、肩たたきをしようにも仕事でカチンコチンにこった肩をたたくのも骨が折れ、すぐに弟達にタッチしていました。懐かしく思い出します。

当時、土木事業の「高橋建設」と、土木作業に伴う原木の搬出などで「高橋木材」という会社もありました。その原木を松山の市場に出していた関係などから、昭和49年に木材関係の仲間5人で会社を立ち上げました。それが今の「大五木材」です。一応父が代表取締役でしたが、何かあれば顔を出したり帳簿を見るという感じの非常勤で、実務は別の方が行っていたようです。よく野村の家にも、「松山の大五木材ですが」という電話がかかってきていたので、そういう会社があるという事はおぼろげながら知っていました。

そして縁があって、大学を卒業してすぐにこの会社に就職することになりましたが、私の入社と事を同じくして現場を預かられていた専務が退職され、経営の右も左も分からず、まして杉も桧の判別すらもつかない私は混乱しました。父は社長とはいえ、木材についての詳しい知識はなく、天性の商売勘の良さと度胸で渡り歩いてきた人間です。背中で仕事を覚えろ!という感じで、詳しい説明は一切なく市場とかにいろいろ連れて行かれました。今にして思えば、そこでも材質を見る目はあまりなかったように思いますが、そこは天才的な勘の良さで豪快な仕入をして結構利益を得ることも出来ました。

ただし日々松山に居るというわけでもなかったので、1週間に数度顔を出すという程度でそのたびに怒鳴られていました。大学までは、一切怒られたことも手を上げられたこともなく、おこづかいも羽振りよくくれたりする「いい親父」でしたが、就職してからは豹変して日々怒鳴られてばかりでした。勤めだしてからは、仕事としての「社長」と親子としても「父」との区別が付けれなくなり、日常でもずっと「社長」と対峙する緊張感の関係でした。その後は、笑って話をした記憶がほとんどありません。『成す時の閻魔顔』という言葉がありますが、まさにその通りで、父も常に口をへの字にした仏頂面でした。でもそれも、自分に木材の知識が少ないのを、土木の仕事で培った経験を体や空気で教えるための父成りのやり方だったのかもしれません。

父は無骨な人間で、人づきあいは苦手な方でした。人を罵倒することもしばしばで、横で聞いていても何もそこまで言わなくてもいいのにと思うこともしばしばあるほど口は悪かったです。それでいろいろ揉め事も合ったようですが、後からそれをひとつひとつ尻拭いをしていたのが母でした。その母も10年ほど前に癌でこの世を去りました。晩年は母との関係も悪くなっていましたが、母の癌が見つかってからは、父は人が変わったように献身的に母の介護にあたりました。母の状態がかなり悪くなり病院通いが多くなった頃、手をつないでいとおしそうに歩く老いた両親の姿を見たときには思わず涙がこぼれました。

それまで大病を患ったことがなく病気知らずだった母に癌が見つかったときの衝撃は大きく、私以上に父のショックはたいそうな物でした。近くの寿司屋に呼び出され、始めてその事を告白された時、カウンターに並んで父と涙を流しました。癌発覚後3,4年して母は逝ってしまいましたが、父の脱力感は見ているこちらが心配するほどで、「もう、わしも長くはない」などと弱気な言葉を吐いたりしていました。伴侶を失ってからの父は抜け殻のようになり、急に年老いてしまいました。以前から、糖尿病、高血圧、低血糖など複数の病気を患っていました。外食も多く、暴飲暴食をしていましたが、それでも母が存命の頃は大量の薬を管理し、食べ物にも気を遣わせていました。しかし母がなくなると、さらに生活のリズムも崩れ、糖尿病の影響でさまざまな合併症も出てきて、病院や治療に行く事が多くなりました。

晩年は、糖尿病、高血圧、低血糖のほかにも心臓病やパーキンソン病なども発病して体はボロボロでした。毎日10にも余る膨大な薬を飲まなければならず、薬で胃がただれたりすることもしばしばでした。そぞ心も体も休まることがなかった事と思います。私が松山に家を建ててからも、両親で1泊しただけでその後はほとんど我が家にも泊まる事がありませんでした。長い間、親子ではなく社長と専務の関係を演じてきたので、不器用な父はその関係外の顔を出すことが出来ず、普通の親子の会話が出来なくなっていたのだと思います。また極度の照れ屋でもあったので、仕事以外にどういう顔をしていいのかも分からなくなっていたのではないかと思います。それは、私や「高橋建設」を継いだ兄も同様だったと思います。父と子としての関係よりも、社長と専務の関係の安心感に染まってしまっていました。 人に弱い部分を見られるのが嫌いだったので、人前で涙を流すことなど決してありませんでしたが、晩年健康を害してからは人目をはばからず涙を流すこともありました。精神的にも相当辛くなっていたのだと思います。 

数ヶ月前に、心臓病の検査があり父が松山に来たことがありました。そのときは珍しくうちに泊まることになり、大きな風呂に行きたいと言うので温泉ランドのような所に、父と私と息子の男3人で行きました。久しぶりに背中を流してやろうかと思いましたが、そこにはかつての筋骨隆々の父の姿はなく、激しく痩せて肉が削げ落ち骨がみえるような背中がありました。服を着てきても痩せているのは分かりましたが。これほどまでに痩せてしまっていたと思っていなかったので驚き、近づくと涙が出そうで裸の父には近づけませんでした。父も察してようで、そう思われるのが嫌だったのでしょう、そそくさとその場を離れました。その頃から、もうこれでは長くないかもという覚悟はありました。

そして1週間ほど前に急に、低血糖による意識障害に陥り、そのまま二度と目覚めることなくあの世に旅立ちました。今の時代、74歳といえばまだ早い方かもしれませんが、病気で体がボロボロの中でよく頑張ったと思います。臨終には間に合いませんでしたが、安らかに眠ったということです。豪快不遜な性格で、高度経済成長のさなか、ガンガン仕事をして派手に遊び楽しみ、やりたいことをやりつくした悔いのない人生だったと思います。仕事については、兄と私それぞれ2年前に代表権を譲り隠居状態で、好きなゴルフや旅行を楽しんでおりましたが、パーキンソン病などの影響で、手足の震えや言葉が不自由になり自分自身が口惜しい気もちだったと思います。もう一度健康な体に戻れることを望んで治療に励んでいましたが、それも叶いませんでした。

安らかな寝顔を見ると、長い病気の苦しみからもからもやっと開放された安堵の表情にも見えます。いろいろありましたが、今はこれまで大きく育ててくれたことに感謝するばかりです。無骨で物言わぬ父の背中は私の目標でした。今では怒鳴られたことよりも、幼き日に家族で旅行に行ったときの事など昔の子ども頃の記憶ばかりが瞼に浮かびます。そこには元気な母の姿もあります。あの世で健康だった頃の体を取り戻し、いち早く母と再会できるようにしっかりと送り出したいと思います。

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私が生まれた時の記念の古い写真です。手前中央のネクタイをしているのが若き日の父・猪佐男、その隣でエプロン姿で子どもを抱いているのが若き日の母・直美、抱かれている子どもが私、隣の子どもが兄・聖一。後段でネクタイをしているのが、命名してくれた祖父・国松。落とし掛けに『命名 照国』の命名札が見えます。

古ぼけたこの写真の裏に、母の筆で『命名 照国 国を照らす立派な人間になるように元気に育て』の一文が添えられています。私の宝物の一枚です。その思いに恥じないように立派に生きたいと思います。ありがとう、お父さん、お母さん。安らかに眠ってください。

**********************************************************************************************************************************************なお生前のご厚情に深謝し、通夜・告別式の日程を謹んでお知らせ申し上げます。

通夜  平成21年5月23日(土)18時~自宅(西予市野村町坂石211番地) tel 0894-77-0311

告別式 平成21年5月24日(日)13時~ルミエールのむら(西予市野村町野村8-209-1)

     tel 0894-72-2233  fax 0894-72-2234  喪主 高橋聖一(故人の長男)

*お取引様各位には数日間ご迷惑をおかけいたしますがどうかご了承下さいませ。




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