森のかけら | 大五木材


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昨日の森林火災で思う事の続きです・・・何十年、何百年と生きてきた大木がただ灰となってしまい消滅するのは虚しい事ですが、この山火事の件で思う事がありました。樹木は大きく育ったら伐って家や家具など何かに使わねばモッタイナイと考える人間の思い上がりなのかもしれないという事。人間が生まれる遥か太古の昔より、自然のシステムの中で世代更新は繰り返されてきました。いかに立派な大木といえども無限の命があるわけでなく老木は幼木に席を譲ってきました。そのタイミングはそれぞれの木によってさまざま。

落雷による火事、寒波や熱波などの急激な気候の変化、虫害、菌などさまざまな理由で、本来神から与えられた寿命を全う出来なかった木は沢山あったはずです。そこにモッタイナイという感情などは存在せず、ただ淡々と命の世代更新は繰り返されていました。焼かれたり、朽ちたり、老いたりしては、幼木にバトンを引き継ぎながら樹木という『種』が受け継がれてきました。そのサイクルの中に人間が割って入って来て、朽ちる前にそれを再利用しなければモッタイナイという感覚を持った。それを人工的に進めたのが植林であり木の産業化。

私もその中に身を置く者ですが、毎年世界中で発生する大規模な火災を見ながら、モッタイナイといつも思っています。100年生きた木は、伐採して100年使えるものにする、というのは木を使う者にとっての命題ですが、それは命をいただく木への免罪符のようなもので、人間側からの勝手な解釈に過ぎません。木からすればいかなる理由であろうと、いかに高邁な理念であろうと、わが身を切り倒されバラバラに鋸を入れられ鉋で削られ釘を打たれることなど許せる話であるわけないのです。

炎に包まれ灰となってしまうおうとも、そこに次に種が育ち新たな命が継承できるのであれば、それは種として立派に目的を遂げたのであり、100年残る家具にされたとしても、種が継承されなければ意味がないことなのかもしれません。いやむしろ、人間に役に立つ素材としてわが身を提供してやるから、植林して一族を絶やすなと、花粉を運ぶ虫と花のような共存関係を狙った献身的で高度な戦略なのかもと思ったりしたら、『人間よ、もっと大きな俯瞰で見よ!種の継承のためなら個の犠牲など厭わぬわ。だからわれら種族は今まで地上で繁栄したきたのだ!』なんて笑われそう。




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