森のかけら | 大五木材


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2016年に発生した熊本地震は、名城・熊本城にも大きな被害を与え、その影響は全国の城にも及んでいます。全国の城で耐震調査が行われて、ここ彦根城でも熊本地震の影響を受けて前倒しで実施されることになったそうです。城の修理といえば、国宝・姫路城の平成の大修理が有名ですが、費用は当初の予定を越えて28億円になったそうで、お城の修理ってとにかくお金がかかります。江戸時代以前に築城され、天守が現存する全国12の城のうち、震度5強の地震への耐震補強を済ませたのは姫路城だけのようです

天守が現存する12城とは、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城ですが、12城のうち4城が四国にあり、愛媛には2つもあります。予備診断では松山城、宇和島城ともに特に問題はなかったとの事ですが、大きな地震が頻発している昨今、どこまでの対策にどれぐらいの費用をかけるのかというのは頭が痛い問題だと思います。過去に消滅した城は戦だけだ無く、落雷によるものも多く、昔の建築物を維持するというのは相当に大変な事だと思います。

城は観光資源も役割もありますから、工事中の観光客の減少の心配もあってなかなか長い期間を有する工事に踏み切れないという事情もあるでしょう。姫路城ぐらい大きければ工事自体を売り物にするという演出も出来るでしょうが、それも費用対効果の算盤勘定。お陰で私は姫路城の大修理を見に行くというツアーに3度も足を運ばせていただきましたが。彦根城は、天守が国宝に指定されている貴重な『国宝五城(姫路・松本・犬山・松江)』のうちのひとつで、やはり国宝という響きは特別なものがあります。国の宝ですからね!

天守内部には立派な大木がふんだんに使われている一方で大きな節のある木も沢山使われていました。鴨居や敷居などにもこんな大きな生き節のある木材が使われていて、加工はさぞ大変だったのではないかと思いますが、切削機械などない時代、手に入る木材は節がある無しに関わらず挽いけたものは大切に使ったのでしょう。また節=下等材という認識が強い現在とでは、節に対する認識も随分違っていたのかもしれません。この節も建築時は艶やかに輝きを放っていたことでしょう。

天守の一角に井伊直弼の像が鎮座ましましておられました。本当はジックリと見たかったのですが、既にこの段階で家族とはかなり遅れを取っていたのと、他の観光客を次第に増えてきたので、仕方なく写真一枚だけ撮って先を急ぎました。独りできていたら一日中でも滞在するのですが、家族旅行ですから単独行動は厳禁。城の何が面白いのかと怪訝そうなこどもたちも大きくなったら、父の気持ちが少しは分かって来るかしら、なんて思いながら天守を後にしたのです。




それではいよいよ彦根城へ。資料を調べていたら大きな勘違いがありました。彦根城=井伊直政とばっかり思っていたら、関ヶ原の合戦で手柄をあげた井伊直政が論功行賞で、石田三成が城主であった佐和山城に入城。1602年に直政が死去して、長男の直継が家督を継いで、1604年に普請を開始。1606年に関ヶ原の前哨戦で耐え抜いた大津城の天守が移築。その後、大坂冬の陣、夏の陣を経て築城普請を再開。1622年に完成しますが、その時には城主は直継から直孝(直政の次男)に変わっていましたので、彦根城初代城主は井伊直孝ということのようでした。

この初代城主というのが曖昧で、普通は藩主が城主という認識だと思うのですが、彦根の場合はちょっと特殊で、佐和山城に直政が封じられた当時は佐和山藩だったのですが、直政が亡くなってから藩庁が彦根に移転。彦根城の築城を開始したのは直継(直政の長男)ですが、完成した時の藩主は直孝(直政の次男)だったため、彦根藩の初代藩主は井伊直政なのか井伊直継なのかについては諸説があるようです。地元の人にしてみれば当たり前のこと何のでしょうが、彦根城=井伊直政と思い込んでしまっていました。お恥ずかしい。

という事でいざ彦根城へ!子供たちは興味なさげに石段を駆けあがって行きますが、私にとって城は巨木の絶好の撮影スポットでもあります。城にはつきものの『ムクノキ』や『クスノキ』、『クロガネモチ』などがあり、誰も興味を示さない樹木に独りカメラを向けるおっさんに次第に距離を取る子どもたち。正月から結構な観光客が来ていてビックリしましたが、本丸まで来ると私と同じように樹木にでっかいレンズのカメラを向けるおじさんたちが数人いらっしゃいました。多分同じ趣味の同輩だと思われているんだろう・・・。

本丸からは彦根の街を一望。天気もよくて、真っ白に雪をかぶった鈴鹿山脈まで綺麗に見えました。ただの観光で彦根で来たわけでなく、別の目的もあったのですが、事前の情報収集が甘くて、そんなに雪が降る所だと思っていませんでした。たまたま天気が良かったのでノーマルタイヤでも大丈夫でしたが、車で走っていると遭遇する『凍結注意』とか『スノータイヤ』、『チェーン規制』の看板にビクビク。もっと北部の方は雪が降るとは思っていましたが、天気が悪ければ危ういところでした。

そういえばこの時期に名古屋から木材を仕入れると、関ヶ原あたりで積雪のためトラックが身動き取れなくなり、納期がズレ込むという経験を何度もしていたのですが、正月の天気がよさそうな事もあって安気な気持ちで来てしまいました。まあそのお陰で彦根城は絶景。2017年は「彦根城築城410年祭」だったらしく大いに盛り上がったようで、滋賀県全体での観光客数も5,200万人を越えたとの事。ちなみに愛媛県は2,700万人(H29年)。そんなに差があるとは・・・!




さて、時間とともに車がドンドン集まって来て、人波で溢れ返るアウトレットパークは、高橋家にとって決して居心地のいい場所ではありませんでした。早々にリタイアした私と息子の男チームをよそ目に勇んで人混みに飛び込んで行った女チームも結局目当てのものを見つけられずに退散することに。駐車場に戻ると車の列は更に伸びていて、ナンバープレートを見ると関西圏以外からも沢山の車が来ていて、なかなか出れなかったのですが、どうやら私達が駐車場に就いた直後に交通事故があったらしく車が大破。多分数分遅かったら巻き込まれていたと思われ冷や汗・・・。

そして次に向かったのは彦根城。これは勿論私のリクエストで、娘たちからはNGでしたが、ここまで運転してきたことに対する論功行賞として許しが出ました。若い頃はそうでもなかったのですが、歳を重ねるにつれて城に興味が増してきました。材木屋だから城に興味があって当然と思われるかもしれませんが、城の建築とか様式美というよりも誰がどういう経緯でその城を作ったのか、そしてその後城苦難の時代をどう生き抜き、歴史にどのように翻弄されたのかという事の方に興味が湧いてくるのです。彦根城城主は徳川四天王の一人、井伊直政。歴史の宝庫です。

なので時間があればなるべくその地に残る城を訪ねるようにしているのですが、家族旅行だと大抵多数決で却下されるものの、今回は600キロも運転してきた甲斐がありました。この時期だからという事もあるのでしょうが、お堀の水は松山城に比べても全然綺麗。堀を挟んですぐの所に映画のセットのように整然と風情のある城下町が作られていました。まずは国宝である天守を目指すことに。いきなり急傾斜の石の階段が現れました。そこを子供たちは勢いよく駆けあがっていきますが、そういう光景を見れるのもあとわずかと思うと何気ないこんな事すら大切に思えます。

私だけゼエゼエと息を切らしながら階段を登り切って振り返れば結構な傾斜でした。彦根城は松山城と同じ平山城ですが、こん体力ではとても山城など無理・・・。今年は体力増強に努めます(毎年言っているようにも思いますが、今年は正月からの階段登りでそれをつくづく実感)。事前の自分調べで、彦根城の石垣は特徴があると読んでいたので、よく見ておこうと思っていたのですが、あれもこれもと写真を撮っていたら独りだけ遅れて、子どもたちに急ぐように促されてじっくり観察するに至らず。行くつもりだった埋木舎』(うもれぎのや)の事もすっかり頭から消えてしまっていました。

埋木舎とは、17歳で父を亡くした13代藩主であるかの井伊直弼が、17歳から32歳までの15年間を過ごした舎の事で、井伊直弼が自ら「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠み、『埋木舎』と名付けました。庭から表座敷、奥座敷など見ることができ、井伊直弼ゆかりの資料などを展示してあるということでした。その展示物に興味があるというよりは、埋もれ木に例えられた事に興味があったのです。ちなみに直弼は、彦根城内の欅御殿というところで生まれたということでしたが、先人たちの暮らしの中にいかに木が密接に関わっていたという事の証だと思います。




今年の初日の出は兵庫県淡路島で迎えたのですが、狙っていたわけではなくてたまたまその時間を淡路島で迎えたという事なのですが、もしかしてこれは『かけらの神の啓示では?!なんて考えてしまうほどに、この島は神ゆかりの島でもあります。関東の方には馴染みがないかもしれませんが、この淡路島こそが最初に産まれた島なのです。古事記日本書紀には、イザナギノミコトイザナミノミコトが最初に産んだのが「淡路穂狭別島(あわじのほのさわけのしま)」すなわち淡路島だという『国産み』神話が記されています。

そんな淡路島も目的地に行くまでの休憩地だったのですが、混雑を避けて早朝に家を出たため、たまたまそこで初日の出を拝むこととなったのです。そして淡路を後にして向かったのは、滋賀県竜王町。私的にはほとんど興味が無いのですが、娘たちのリクエストで向かったのは「三井アウトレットパーク滋賀竜王 」。当初の予定より少し早めに到着したものの、7,000台収容できるという駐車場は車、車、車・・・。今までにも何度かアウチレットモールなるものに行ったことはあるものの、ただただ歩き疲れるだけ。よくもまあ正月からこれだけ人が集まるものだと・・・。

案の定、私と息子は早々にリタイアしてベンチで待機。その間に店のパンフレットやら見ていて気になったのが竜王という地名。今まで滋賀には何度か来たことはあって、それまで気にもかけていませんでしたが、よく見てみれば面白いというか個性的な地名が多いことに気づきました。竜王という地名は全国に多くて、私の実家の近くにも竜王山があったり龍沢寺がありますが、これらは大きな川の周辺ではよく見かけます。川の氾濫を龍が怒って暴れているとし、それを鎮めるための竜王信仰に由来したものが多く、当地の竜王の由来もそのようでした

この後、滋賀県内をいろいろ巡ることになるにですが、行く先々で馴染みがあるような地名や風景に出会い。思わぬ形でシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)を経験することとなり、この先の滋賀とのご縁を感じずにはいられなくなるのです。ところで遠く離れた駐車場からは専用バスが送迎してくれるのですが、送迎は手塚治虫先生の『ジャングル大帝』のレオのペットマークが描かれた西武バス。そうか、滋賀は西武グループの創業者・堤康次郎の生誕地。この後、多くの近江商人の足跡に触れる事になるのです。




前に来た時にも見ていたはずでしたが、人が多くて写真に撮らなかったのか、目には映っていながら気に留めていなかったのか、天守閣から降りたところに1本の大きな『エノキ(榎)』がありました。「榎 定年齢100年」と書いた紙が取って付けたように掲げられていましたが、もしかしたら以前はそれがなくて、エノキかどうか自信が無くて撮影しなかったのかも?もしかしたら私と同じような人間がいて、樹種名が分かるようにして欲しいとの投書でもあった結果なのかしら?

ところで、なぜに姫路城にエノキがあるということで興奮しているのかというと、ニレ科の広葉樹エノキの学名はCeltisといって「甘い果実をつける木」という意味があります。私は実際にその実を食したことはありませんが、昔飢饉の時にはエノキの実を食べて飢えを凌いだそうです。そのため非常食として全国各地に植えられ、人の命を救ってくれる救荒植物として重宝され、信仰の対象ともなっていきました。そのため城造りの名人と謳われた加藤清正公は城の中にエノキを植えたといわれています。

籠城して食料の調達が困難になった時には、エノキの実を食べてでも生き抜く、またその樹皮は燃えやすいので薪として燃料にも使えるということで、築城の際には城内にエノキムクノキを植えたというのです。まあ城内にはいろいろな種類に樹が植えてあるので、もしかしたらこの話も後付けかもしれませんが、エノキという木の特性をしっかり捉えて彩りを与えている話だと思います。そういう事もあっていろいろな城に行って、城内にエノキを見つけるとひとりで勝手に納得してしまうのです。

まあしかし推定年齢100年という事ですから、既に時代は大正。まあ推定年齢ですからザックリですが、救荒植物としてというよりも植栽の一部として樹形のいい樹として植えられたのかもしれませんが、そういってしまっては身も蓋もない。やっぱりそこは戦に備えた植えたのであって欲しい。立派な枝ぶりのエノは、観光客に大きな日陰を与えてくれていました。大木あるところに人は集まる。さまざまなに思いを馳せながら、ミスター会の研修旅行はこれにて終了。バスは一路、松山へと向かうのでした。




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