森のかけら | 大五木材


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個人的は、ピッチャーの投球スタイルとしては、昔で言えばミスター・タイガースの村山実が好きです。身長は私と同じ175㎝で、プロ野球選手としては小柄だったため、全身のバネを使ってダイナミックに投げるファームが特徴で、その投げ方は悲壮感すら感じさせるもので、当時マラソンや10,000ⅿ走などで活躍した陸上選手のエミール・ザトペックも苦しそうに走るスタイルだったことから、「ザトペック投法」とも呼ばれました。同様に上半身を折りたたむような豪快なフォームで剛速球を投げ込んでいた阪急ブレーブスの山口高志も惚れ惚れします。

全盛期の藤川球児の火の玉ストレートもそうだし、大リーグで言えば、レッドソックスのグレイグ・キンブレルなど。そういう風に体をめいいっぱい使って投げる熱投型の投球スタイルが好きなのですが、それは野球のピッチャーの好みというだけだなく、自分の営業スタイルにも相通ずるものがありました。なので若い頃は常にどういう展示会などでも最初から全身全霊をかけた全力投球。しかし狙いが定まっていないのですぐにバテテしまい、責任投球回すら持たないことが多く、後半尻すぼみになってばかりで、打率(制約率)も下がる一方で成果がでず。

それで展示会などに出て一日が終わると心身ともヘトヘトになってしまい、2日がかりのイベントなどの場合、2日目はテンションがダダ下がりという事が多かったのです。要するにどこに力を入れればいいのか、物事を俯瞰で見ることが出来ていなかったのです。その時に参考になったのが江川卓の投球スタイル。村山や藤川などの熱闘型とは対極のように見える軟投型。地型や下半身が強いので、一見軽く投げているように見えても球に威力があるのですが、見た目には「もっと力入れてしっかり投げろや~!」と思わせる投球フォームでした。

それでいてバッターがキリキリ舞いさせられるのですから悔しいことこのうえなかったのですが、そんな凄い球をもっていてクリーナップを封じ込めるのに、下位打線に簡単にヒット打たれたりの、いわゆるポカが多いのも愛嬌でした。それが「全力投球しない」とか「手抜き」とここぞとばかりに叩かれていました。当時は私もそう感じていましたが、後年あれがピッチャー江川卓のスタイルなんだと思うようになりました。9回全てを全力で投げる事は出来ないので、自分の最大のストロングポイントに力を注ぐため、力をセーブできるところは力を抜く

それが他人からはどう批判されようとも、ここぞという大切な場面を抑えられる1球のために試合全体のバランスを考えて、体力を温存し自分のペースを崩さない。一時期はもう展示会に出るのも嫌になっていましたが、ほどよい手の抜き方が出来るようになってからは、少しはイベントに出店しても余裕が持てるようになりました。ちょうど自分の中の背骨が固まってきた時期でもあり、営業スタイルもストロングポイントも定まってきて、それから「接客の楽しみ方」が多少は分かってくるようになりましたという話を超まわりくどく話させていただきました。これにてこの長い話、終了~。




すっかり野球のブログのようになっていますが、最後は着地点はそれなりに考えておりますのでもうしばらくお付き合いください。ここでちょっと話を整理しますと、その時(江川が8連続奪三振を記録した)のパ・リーグのオーダーは、福本(阪急)・蓑田(阪急)・ブーマー(阪急)・栗橋(近鉄)・落合(ロッテ)・石毛(西武)・伊東(西武)・クルーズ(日本ハム)という、オールドファンが泣いて喜びそうな顔ぶれ。歴代盗塁数日本一の福本を筆頭に、落合、ブーマーと三冠王経験者が二人に、8番を打ったクルーズでさえその時点で、打率.348、18本塁打と絶好調で、まさに当時のパ・リーグを代表する選手がズラリと並んでいました。そんな猛者たちを相手にしての8連続奪三振は、敵ながらアッパレというほかありません。

ちなみにですが、江夏豊9連続奪三振をした時のパ・リーグのオーダーは以下の通り。有藤(ロッテ)、(西鉄)、長池(阪急)、江藤(ロッテ)、土井(近鉄)、東田(西鉄)、阪本(阪急)、岡村(阪急)、加藤秀(阪急)。こちらも歴代記録に名を残すような選手がズラリ。よく言われるのが、当時パ・リーグを代表する強打者、張本(東映)、野村(南海)が含まていないと指摘する人もいますが、その時のパ・リーグの監督・濃人(渉)さんがふたりに恥をかかせれないのであえて代打を送らなかったのが真相だとか。

江川に話を戻すと、最後の9番目のバッター、大石大二郎に対して江川が最後に投じたのがストレートではなくカーブ。短くバットを持つスタイルの大石はそのカーブをバットに当てて夢の9連続奪三振記録は夢と散ったのです。後年、江川はその時にカーブを投げた理由を、カーブで振り逃げを狙って、江夏を超える10連続を狙ったと後日談として語っていましたが、私はそれは照れ隠しの嘘ではないかと思っているのです。入団から架せられたダーティなイメージに対する引け目がカーブをほうらせてしまったのではないかと・・・。

取ろうと思えば簡単に9連続奪三振だって奪えるのに、あえて9連続を成功させて歴史に名を留めなかったのが江川であり、だからこそ怪物・江川卓だったのではなかろうかと。う~ん、ここまで宿敵・巨人の選手を称えるのは不本意なのですが・・・一応阪神OBということで。もしも江川が高校卒業後すぐにプロ野球界に飛び込んでいたら多くの投手記録は塗り替えられていたのではないかと思います。阪神に入っていてくれたらなあ・・・。さて、なぜにここまで延々と野球の話を書いてきたかというと、その江川の投球スタイルに商売の活路を見出したから

 




昨日の続きですが、そうやって少年時代に「怪物・江川」の存在を知り、こんな凄いピッチャーが阪神タイガースに入ってくれたらいいのになあと思いながらも、度重なる入団拒否の挙句に野球協約の盲点を突いた巨人入団で、一気に悪役のレッテルが貼られ、巨人入団後の江川には常に後ろめたさのようなものがついて回っていたように思います。その典型的なのが、オールスターでの未遂に終わった『9人連続奪三振記録』。あまり野球に詳しくない方のために説明しますと、セ・リーグとパ・リーグがリーグ対抗で争うオールスター戦という夢の球宴があります。

ファン投票や監督推薦などによってその年に活躍した選手たちが選ばれて、2試合(以前は3試合制)を戦います。そのためピッチャーはひとり3イニングまでと決まられているので、最大でも9人との打者としか対決できません。その9人すべてのリーグを代表するバッターから連続ですべて三振を奪う、そんな離れ業をやってのけたピッチャーが過去にひとりだけいます。それが、わが阪神タイガースの江夏豊!南海・広島に移籍しての技巧派のリリーフとしての印象が強いでしょうが、江夏豊は入団2年目には401個の前人未踏の奪三振記録を作った剛腕だったのです。

残念ながらその後、心臓病や血行障害などで剛腕投手としての道は絶たれてしまうのですが、入団から7年間200個以上の奪三振記録を継続しました。私がピッチャー・江夏を強く意識して観るようになったのは、広島に移籍したからなんで、今思えばモッタイナイことをしたなあ・・・と。そんな伝説の剛腕・江夏豊ただひとりしかなしえていなかった夢の記録『オールスターの9人連続奪三振』の記録に並びかけたのが、江川卓だったのです。順調に8人のバッターを三振にして、残るはあとひとり。江夏の時は私も5歳で当然試合など観てもいませんが、江川の時はリアルタイムでテレビで観ていました。あと、ひとり!球場全体が異様な雰囲気に包まれ、夢の大記録に誰もが期待を寄せていました。

9番目のパ・リーグのバッターは、近鉄の大石大二郎。身長170㎝に及ばない小兵でしたが卓越したバットコントロールで通算17年で1800本を超えるヒットを放ち、三度の盗塁王にも輝いた名選手です。野球の世界に「もし」は禁句ですが、もし最後のバッターが業師の大石でなくほかの選手だったら9連続奪三振は達成できていたのではないかというのはプロ野球ファンの定番の『もしもあの時ああだったら』の鉄板ネタ。私は、大石選手でなかったとしても(一発狙いの振り回してくるタイプの代打が出たとしても)9連続は出来てなかっただろうと思っています。まだまだ続く・・・




誕生木・12の樹の物語』を共同制作した兵庫県明石市の住空間設計Labo渡辺喜夫社長のご厚意で、今年も甲子園の阪神戦のチケットをいただきました。自分で買う事も出来ますが、自分で日にちを選ぶとなると来週は何々があるし、次の週は地元の行事が、来月は子供の部活の送迎が・・・と、選べそうで選べなくなってしまうので、ビシッと日にちが指定された方が腹が決まるので動きやすいということもあります。愛しの阪神タイガースは今年も苦戦しておりますが、長年の阪神ファンは慣れっこ。日々買ったの負けたの楽しませてくれて、活力をいただければそれで十分です。

という事で甲子園で阪神戦を堪能させていただいたのですが、甲子園といえば高校球児の聖地でもあります。その聖地では今まで数多くの「怪物」たちによってドラマチックな試合が繰り広げられてきました。怪物といえばPL学園の清原・桑田のKKコンビや横浜高校の松坂大輔が思い浮かびますが、昭和41年生まれの私にとって最初に甲子園で「怪物」を意識したのは、1973年の夏の甲子園大会で「怪物」の名をほしいままにした江川卓。当時私は7歳で、リアルタイムで怪物の活躍を観たわけではありません。

今のように甲子園がショー化されていなかった時代、地方に住んでいて甲子園が遠い世界の話であった少年にとって、怪物を知ったのは「アサヒグラフ」などの雑誌や漫画。今では信じられないくらい個人情報に対する扱いがユルユルの時代で、甲子園で活躍した選手などは、その幼少期の話から家族の事まで事細かに漫画化されていました。それで怪物・江川卓物語みたいな話があって、杤木県予選での完全試合やノーヒットノーランの偉業や、最後の夏の甲子園で雨中の銚子商業戦の痛恨の押し出し四球などを読んで知ったのです。

確かまだその時は江川はプロには入っていなかった頃(作新学院卒業時のドラフトで阪急ブレーブスから一位指名を受けるも入団を拒否して法政大学に進学。4年後のドラフトでは、クラウンライターライオンズから一位指名を受けるも再度これも拒否して、単独でアメリカに野球留学する。その翌年、わが阪神タイガースが一位指名して、球界を騒然とさせた「空白の一日事件」が起こってしまう。※詳しい経緯は➡細腕奮闘記・小林繁とあわら市①*)なので、まだその後彼が巨人のユニフォームを着るとは思ってなく才能豊かな怪物の魅力に酔いしれていたのです。更に更に続く・・・




ということで、本来の主題に戻します。最近はほとんど展示会などに出店することは無くなりましたが、昔はよく各地の展示会に出店していました。それこそ子供がまだ小さかった頃は、下の双子を二人乗り用のベビーカーに乗せて、家族総出で出店していて、お客さんから「大変だね」と同情されたものです(笑)。今その様子を見直してみると、確かに他人から見れば悲壮感が漂っていたのかもしれません。決してそれを「売り」にしたりはしていませんでしたが、もしかしたらそれでモノが売れていたのかも?!

当時はまだまだ自分の中に材木屋としての背骨が定まっていなかった頃でして、同じようなスタイルでゴールを目指す先輩材木屋もいなかったので、何をするにの試行錯誤。当たって砕けろの精神で、声をかけていただいた展示会にはほとんど出店させていただきました。中には木材の展示会以外の町の催し的な時もありましたが、なにせすべてが初体験だったので、がむしゃらに動き回っていました。また出店してもどういうタイミングで誰にどう声をかけていいのかも分からず、ブースに来る人すべてに100%の力で対応する為、疲労感も半端でなかったです。

最初の頃は、ちょっとでもドアが開いたら隙間に足先を滑り込ませて強引にグイグイと入ってくる悪徳新聞勧誘(さすがに今の時代はないか)のように、わずかなご縁でもどうにかねじ込めないかと、TPOも分からずただただオウムのように成功事例を繰り返すだけでした。そういうスタイルなので、当然打率も低くなり、体力ばかりを消耗していました。今となってはそれはそれで今の自分の基礎を作ってくれた貴重な体験だったと思っていますが、当時は展示会が1日終わると身も心もクタクタになっていました。「待つ」という事を覚えたのはそれから数年後の事。

この人は本気で訊いてきているのか、ただの冷やかしか。ただの興味本位なのか、本気で購入を考えているのか、この場で話すより後日会社に来てもらう方がいいのではとか、どうにか手探りで自分のストライクゾーンを固定させる事が出来るようになりました。思えば若い頃は、ストライクゾーンを相手に合わせて大きくしたり小さくしたりとまったく居所が定まっていませんでした。さあ、ここからが話の本題!という事で、まあいい意味での「手の抜きどころ」というものを会得していった私の脳裏に思い浮かんだのひとりの野球選手の姿。明日に続く・・・




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