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| ビーバーハウスは昔からビーバーハウスであったわけではありません。ごく普通のまっとうな製材所時代もあったそうです。隊長(武田誠さん)から訊いたところ、昔は水力を動力源とした水車製材所だったそうで、その当時の貴重な写真を見せていただきました。当然今はその設備はありませんが、武田製材さんが昔からこの土地で木の仕事に関わられた事が伺えます。昭和の初め頃まではこの水車を使って製材していたということでしたので、隊長の先代か、先々代の時代でしょうか。 |
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武田製材がビーバーハウスと呼ばれるようになったのは、現社長の隊長(武田誠さん)の時代からではあるものの、隊長とて最初からビーバーだったわけではありません。逆に驚いたのですが、ビーバーになったのは今から7、8年前の事で、それまではスギなどの針葉樹で梱包材を挽かれる『時間と競争する納期厳守』の製材工場だったそうなのです。今の状況からは想像もできないのですが、驚かされたのはその事よりもわずか7、8年でここまでになったビーバーの破壊力!? |
| 1年365日のうち正月を含んだわずか数日だけが心休まる日々で、毎日が迫りくる納期との争いで、5,6人の社員の方々と一緒に梱包材を挽かれていたそうです。やがてその反動から、ビーバーへと生まれ変わっていかれるのですが、その当時の土場を写した写真を見ると、そこには梱包用のスギの丸太が並べられ倉庫にも整然と梱包材が積み上げられていて、現状とのあまりの変貌ぶりに笑いそうになってしまいます。人間、やる気になれば短期間でここまで変われるものか!? |
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ビーバーハウスの土場や倉庫では挽かれた材に、小さな木の板が打ち付けられ木の名前や挽いた日付などが書かれています。挽く材がかなりマニアックなものが多いのと、その数も100種を超えているので、さすがに名前を付けておかねば分からなくなってしまうためですが、これすべて隊長が自ら行われていて、その仕事ぶりは実に几帳面。何の端材だったかすぐに分からなくしてしまう雑な私には到底真似ができません。本来ビーバーはこうでなければなりません。それにしてもそれらの名前を目で追うだけでも食指が動く~! |
| 日本の広葉樹に魅せられたビーバー隊長こと武田誠さんは、変わった木を見つけたら挽かずにはいられなくなる『ビーバー症候群』に患われていて、まるで挽くことが目的になってしまったかのように次々と珍しい木々を鋸にかけています。挽かれた薄板は所狭しと工場の内外に積み上げられています。そんな光景を見て、私の心はドキドキ!こんな場所に長居していたら、すべて欲しくなってこの材がそのまま松山に移動してしまうそうになりそうで怖い・・・当然ながら私も長年ビーバー症候群を患っている者です。 |
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恐らくここを訪れた多くの方が隊長に以下の言葉を投げかけられることでしょう、「こんなに挽いてどうするんですか?」どうかお願いですからもうその質問は止めてあげてください。本能的に木を集めてしまう(隊長の場合は集めて挽いてしまう症状)ビーバー症候群を発症しているのです、病気なんです!どう評価されようとも気にしないので、どうかわたしたちの事はそっとしておいて下さい。そして静かに見守っていて下さい。どこまで本気なの?いやいやどこまでも本気なんです。それが分かる人は軽いビーバー病?! |
| 何事も極めれば芸というか、それなりの評価を受けることになります。周囲から何と言われようともわき目もふらずに日々鬼神のごとく木を挽き続けた隊長のそれは、もはや地域の「観光事業」に指定されてもいいのではないかと思うほど。それほどにこの地には多くのビーバー症候群の潜在的感染者が全国各地からやって来るのです。それは「お客さん」というよりも信者による「巡礼」に近い感覚なのかもしれません。まさにここは聖地!何事もやるからには突き抜けなければ意味がないということをここは示唆してくれるのです。 |
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私も【森のかけら】を作り始めた時に、当初は周囲から相当に白い目で見られましたが、その種類が200を超えるようになって、全国から注文が舞い込むようになり、その販売数が500セットを超える頃から周囲の反応はガラリと変わりました。その志は当初から何も変わっていないのに、変わったのは周囲の反応。隊長もきっと同じような体験をされているはず。最新機械の大型工場で大量に挽くことを目指す住宅資材向けの製材業とは別次元の、ある種の人々から求められる製材業の「あるカタチ」がここにはあります。 |
| 三重県は「松阪牛」だけでなく、「伊勢海老」に「志摩の真珠」、「桑名のハマグリ」など全国に名だたるブランドの宝庫。その名前を言うだけで誰でも理解できるブランドが定着しているって凄いなあと思う反面、偏屈な材木屋としてはブランドイメージに縛られてしまうリスクや、ブランドの冠に埋没してその中での差別化が難しいのではなかろうかなんてつまらない詮索をしてしまうのです。長いものに巻かれることをよしとしない我々ビーバー一派の進む道は、光の当たらぬ広葉樹を巡るノーブランドの世界。 |
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決してひがみやねたみで言っているつもりではないのですが、どうしても性格的に巨大なるものへの反発心が強いのと、自分の手で新たなモノを作り出したい、新たに光を当てたいという思いがあって、世間の潮流とは逆へ逆へと舵をきってしまうのが悲しきビーバーの性・・・。まあそれが損だとか回り道だとか思ってもなくて、好きだからやってるというだけのもの。多くの方がビーバーハウスに足を踏み入れられて思うことは、「なんでこんな無謀な事をやっているんだろう?!」という疑問ではないでしょうか。 |
| いろいろなメディアの取材なども受けられていて、その書き手がそれぞれに、この人はこれこれこういう理由でこういう無謀な事をしているのだと、理由付けをしようとされているようです。不遇な状況にあった日本の広葉樹にスポットライトを当てたいとか、日本の林業の新しいビジネススタイルを模索する高邁な理念がここあるとか。そうやって何かの動機づけをしなければ自分の中でこの行為が説明できなくなって不安に感じるのかもしれませんが、動機はもっとシンプルで単純なもの。「好きだからやっている!」それだけ。 |

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ビーバーハウスに足を踏み入れた最初の私の印象。うず高く積み上げられた様々な広葉樹の板を見あげて、「嗚呼、もうこの人はたまらなく木を挽くことが好きなんだろうなあ・・・。」世間では「なぜ?」と思われるビーバー活動ですが、もうこれは本能なんだから仕方がないのです。ただただ好きでやっているだけで、ゴールがあるわけではなくて、珍しい木があれば挽いてしまうという条件反射のようなもの。そこに理由などないのです。同じビーバーの血が流れる私には分かる・・・嗚呼、哀しくも愛すべきビーバー魂! |
| 瀧原宮から荻原神社を経て、向かうはビーバーハウス。わが故郷に似た山道を進むと集落が見えてきてその中に突然とそれは現れました。初めて松山にやって来られるお客さんを道後温泉にご案内する機会がこの数年やたらと多いのですが、特に東日本の方が抱かれている温泉のイメージと現実がかけ離れていることが多くて、道後の街に入ってからくり時計の角を左折すると忽然と現れる道後温泉本館に、「えっ、ここ?!」と驚かれること多数なのです。湯煙も無く、温泉街という風情も無い中に突然現れるからそう思われるのでしょう。 |

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たぶん多くの方が抱かれている温泉街のイメージというのは恐らくこんな感じではないでしょうか。写真は九州の別府温泉の湯煙の風景です。まあ、これはこれで私の勝手なイメージなのかもしれませんが・・・。幼い頃はよく両親に別府に連れて行ってもらったいたので温泉というとこういうものと思い込んでいて、私の中の刷り込まれたイメージなのだと思います。道後温泉に初めて来たのは中学生頃だと思うのですが、実は大学生になるまで私の中に道後温泉の印象はほとんど残っていなかったのです。 |
| まあ何はともあれ、念願のビーバーハウスに到着!私の中の勝手なイメージでは、山の中にポツリとあって、集めた材と周辺の山の木がほとんど同化してしまっていて、土場の中央にはまさにビーバーの家のように材がうず高く積み上げられてあたかも小山のようになっている姿を思い浮かべていました。隣近所にも普通に家があって、ちょっと驚いたのですが、この場所で製材業が継続されているということは、ご近所周辺とのコミニュケーションがいかにうまくいっているかということの証明ですね。 |

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さてどこから何を見させていただければいいのか見当もつきませんがドキドキが止まりません。今までに全国各地のいろいろな製材工場見学をさせていただきました。最新設備を備えたフルオートメーションのコンビナートのような超大型製材工場から、アフリカの大径木を挽く専門製材、特殊加工機のある工場など個性的な工場は沢山見てきましたが、そのどこよりも惹きつけられるのは私にもビーバーの血が流れているからなのか!そしてここからいよいよ長い長いビーバーハウスでの2日間が始まるのです! |
| 早めに起きたので混雑を避けるべくさっさと電車で移動。難波を出た時には乗客も少なかったものの、次第に人も増えてきて松阪に着く頃には満席に近い状態。お伊勢さんの影響かしらと思っていたら、どうやらこの時期にちょうど三重で全国菓子博覧会『お伊勢さん菓子博2017』が開催されているらしく、それ目当てのか人もいらしたようです。まあそれでも無事松阪に到着。随分久しぶりの松阪です。実は昔はよくここに来ていました。松阪木材がウッドピアとなって移転する前(平成13年に移転)のことですからもう15年以上も前。 |
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初めて来たのは前社長の親父と一緒でした。松阪木材が、岡山の木材市場に浜問屋として出店されたのがきっかけで松阪の尾鷲材を知ることとなり、その後岡山の市場からは撤退されたものの、繋がりを頼りに松阪まで仕入れに来るようになったのです。それまで尾鷲材にはほとんどご縁がなかったのですが、製材所数日本一を誇る三重県の中でも特に製材所が集中する尾鷲からは、多種多様なサイズのスギ・ヒノキの造作材が大量に生み出されていて、乾燥に関して後塵を拝した愛媛にとっては実に羨ましく頼もしい存在でした。 |
| メーカーが多すぎて最初のうちはどれもが同じに見えて、一体どこのを買えばいいのかも分かりませんでした。父親に相場をよく見ておけと言われるも、同じようなサイズの商品がズラリと並んでいて、それぞれが微妙に価格がずれているので、一体何を基準に相場をみればいいのやらも分からないほどに私も未熟でしたが、それほど大量の製品で溢れていました。まだ移転する前の小さな場所が市の舞台でしたので、人が押し合いへし合う中でセリが行われていて、木材市場の活気を身をもって経験させてもらいました。 |
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松阪木材に行くようになって10年ぐらいは、尾鷲ヒノキには随分とお世話になりました。赤みが淡いピンク色で目のよく詰まった尾鷲材は、鴨居や敷居、廻縁、畳寄せ、額縁などの造作材から化粧の柱まで非常に有用でいて、しかも価格的にもリーズナブルで、わざわざ運賃をかけてでも仕入れてくるだけの価値がありました。その価値は恐らく今でも変わっていないと思いますが、弊社の方が変わってしまい、その後徐々にヒノキの造作材離れが進み、新たに松阪にまで仕入れに行くことは少なくなってしまったのです。 |