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| それでは早速安土城(跡)に入ります。大手道の正面に受付があって、そこで入山料を払うのですが、大人¥700、小人¥200でした。私の前で支払いをしていたのは話しっぷりから台湾の若いカップルでしたが、正月早々から安土城に来ようとはなかなか見上げた心意気!楽しそうに手をつないで観光するそんなカップルをよそに、私と息子は石段ダッシュ!なにせ下の駐車場では女子チームが待っておりますので、あまり悠長な事はしていられません。大手道に入るとすぐ左右に信長の家臣たちの屋敷跡の石積みが現れます。大手道の左手にあるのが羽柴秀吉邸跡。 |
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いきなりビッグネーム登場!秀吉がまだ羽柴の姓を名乗っていた当時に住んでいたお屋敷。さすがは歴史ドラマの地・滋賀。ここはまさに日本の歴史上もっと熱くエネルギッシュだった時代の表舞台なのです。名だたるビッグネームがここに集っていたのです。こんなことぐらいでいちいち感激していてはとても天主まで辿り着けません。しかし秀吉邸の石垣も大層立派で、上下2段に分かれていた大豪邸の跡から、秀吉が信長の家臣の中でもどれほどの地位にいたのかという事が伺えます。秀吉邸の反対側には、前田利家の邸宅跡、そしてその少し上には徳川家康邸跡もありました。 |
| 大手道の石段を登り始めてすぐの場所なのですが、それで気になったのは、信長様から天守に来るようにお呼びがかかったら、日々結構な距離の急傾斜の石段を駆けあがってゆかねばなりません。ここから天守までがどれぐらい距離があるのか、その時はまだ理解していませんでしたが、下りてくるときに、嗚呼ここを日々登ったり下りたりしていたかと思うと、戦国時代のもののふは皆アスリート並みの体力を有していたんでしょう。秀吉や家康クラスの重臣となるとそんなに大急ぎで大手道を駆けあがるような事はなかったのかもしれませんが、かつて古参の重臣・佐久間信盛に煮え湯を飲ませた信長の事ですから家臣は常に心やすらかではなかったのでは。 |
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当日はパラパラと小雨が降っていましたが、雨に濡れると石段も滑りやすく、まだ部分的には雪も残っていてつま先からジンジンと寒さが伝わってきましたが、ここを草鞋や草履で駆け抜けていたかと思うと、戦国時代がいかにタフでなければ生きていけない時代であったか思い知れます。左の写真は、残った石垣や設計図を元に復元された羽柴秀吉邸の模型(滋賀県立安土城考古博物館展示)。豪勢な造りです。秀吉邸も家康邸も利家邸も石垣しか残っていませんが、もしも天守をはじめこれらすべての建築物が残っていたとしたら、どれほど豪奢な城であったことか。 |
| ちなみにこれらの家臣の屋敷跡は、すべて「であったのではなかろうか」と伝えられたものだそうで明確な根拠はないのだとか。秀吉、家康、利家のお屋敷跡はあったものの、筆頭家老であった明智光秀をはじめとする『織田四天王』(明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益)の屋敷跡はガイドマップなどには書かれていませんでした。そもそも安土城に関しては、残っている記録が少ないので見つかっていないだけかもしれませんが。最新のCGによって、緻密に再現された安土城を見ると、石段の両側にはビッシリと屋敷が居並び、さぞかし壮大な光景であったと思われます。続く・・・ |
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| それではいよいよ彦根城へ。資料を調べていたら大きな勘違いがありました。彦根城=井伊直政とばっかり思っていたら、関ヶ原の合戦で手柄をあげた井伊直政が論功行賞で、石田三成が城主であった佐和山城に入城。1602年に直政が死去して、長男の直継が家督を継いで、1604年に普請を開始。1606年に関ヶ原の前哨戦で耐え抜いた大津城の天守が移築。その後、大坂冬の陣、夏の陣を経て築城普請を再開。1622年に完成しますが、その時には城主は直継から直孝(直政の次男)に変わっていましたので、彦根城初代城主は井伊直孝ということのようでした。 |
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この初代城主というのが曖昧で、普通は藩主が城主という認識だと思うのですが、彦根の場合はちょっと特殊で、佐和山城に直政が封じられた当時は佐和山藩だったのですが、直政が亡くなってから藩庁が彦根に移転。彦根城の築城を開始したのは直継(直政の長男)ですが、完成した時の藩主は直孝(直政の次男)だったため、彦根藩の初代藩主は井伊直政なのか井伊直継なのかについては諸説があるようです。地元の人にしてみれば当たり前のこと何のでしょうが、彦根城=井伊直政と思い込んでしまっていました。お恥ずかしい。 |
| という事でいざ彦根城へ!子供たちは興味なさげに石段を駆けあがって行きますが、私にとって城は巨木の絶好の撮影スポットでもあります。城にはつきものの『ムクノキ』や『クスノキ』、『クロガネモチ』などがあり、誰も興味を示さない樹木に独りカメラを向けるおっさんに次第に距離を取る子どもたち。正月から結構な観光客が来ていてビックリしましたが、本丸まで来ると私と同じように樹木にでっかいレンズのカメラを向けるおじさんたちが数人いらっしゃいました。多分同じ趣味の同輩だと思われているんだろう・・・。 |
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本丸からは彦根の街を一望。天気もよくて、真っ白に雪をかぶった鈴鹿山脈まで綺麗に見えました。ただの観光で彦根で来たわけでなく、別の目的もあったのですが、事前の情報収集が甘くて、そんなに雪が降る所だと思っていませんでした。たまたま天気が良かったのでノーマルタイヤでも大丈夫でしたが、車で走っていると遭遇する『凍結注意』とか『スノータイヤ』、『チェーン規制』の看板にビクビク。もっと北部の方は雪が降るとは思っていましたが、天気が悪ければ危ういところでした。 |
| そういえばこの時期に名古屋から木材を仕入れると、関ヶ原あたりで積雪のためトラックが身動き取れなくなり、納期がズレ込むという経験を何度もしていたのですが、正月の天気がよさそうな事もあって安気な気持ちで来てしまいました。まあそのお陰で彦根城は絶景。2017年は「彦根城築城410年祭」だったらしく大いに盛り上がったようで、滋賀県全体での観光客数も5,200万人を越えたとの事。ちなみに愛媛県は2,700万人(H29年)。そんなに差があるとは・・・! |
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| さて、時間とともに車がドンドン集まって来て、人波で溢れ返るアウトレットパークは、高橋家にとって決して居心地のいい場所ではありませんでした。早々にリタイアした私と息子の男チームをよそ目に勇んで人混みに飛び込んで行った女チームも結局目当てのものを見つけられずに退散することに。駐車場に戻ると車の列は更に伸びていて、ナンバープレートを見ると関西圏以外からも沢山の車が来ていて、なかなか出れなかったのですが、どうやら私達が駐車場に就いた直後に交通事故があったらしく車が大破。多分数分遅かったら巻き込まれていたと思われ冷や汗・・・。 |
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そして次に向かったのは彦根城。これは勿論私のリクエストで、娘たちからはNGでしたが、ここまで運転してきたことに対する論功行賞として許しが出ました。若い頃はそうでもなかったのですが、歳を重ねるにつれて城に興味が増してきました。材木屋だから城に興味があって当然と思われるかもしれませんが、城の建築とか様式美というよりも誰がどういう経緯でその城を作ったのか、そしてその後城苦難の時代をどう生き抜き、歴史にどのように翻弄されたのかという事の方に興味が湧いてくるのです。彦根城城主は徳川四天王の一人、井伊直政。歴史の宝庫です。 |
| なので時間があればなるべくその地に残る城を訪ねるようにしているのですが、家族旅行だと大抵多数決で却下されるものの、今回は600キロも運転してきた甲斐がありました。この時期だからという事もあるのでしょうが、お堀の水は松山城に比べても全然綺麗。堀を挟んですぐの所に映画のセットのように整然と風情のある城下町が作られていました。まずは国宝である天守を目指すことに。いきなり急傾斜の石の階段が現れました。そこを子供たちは勢いよく駆けあがっていきますが、そういう光景を見れるのもあとわずかと思うと何気ないこんな事すら大切に思えます。 |
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私だけゼエゼエと息を切らしながら階段を登り切って振り返れば結構な傾斜でした。彦根城は松山城と同じ平山城ですが、こん体力ではとても山城など無理・・・。今年は体力増強に努めます(毎年言っているようにも思いますが、今年は正月からの階段登りでそれをつくづく実感)。事前の自分調べで、彦根城の石垣は特徴があると読んでいたので、よく見ておこうと思っていたのですが、あれもこれもと写真を撮っていたら独りだけ遅れて、子どもたちに急ぐように促されてじっくり観察するに至らず。行くつもりだった『埋木舎』(うもれぎのや)の事もすっかり頭から消えてしまっていました。 |
| 埋木舎とは、17歳で父を亡くした13代藩主であるかの井伊直弼が、17歳から32歳までの15年間を過ごした舎の事で、井伊直弼が自ら「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠み、『埋木舎』と名付けました。庭から表座敷、奥座敷など見ることができ、井伊直弼ゆかりの資料などを展示してあるということでした。その展示物に興味があるというよりは、埋もれ木に例えられた事に興味があったのです。ちなみに直弼は、彦根城内の欅御殿というところで生まれたということでしたが、先人たちの暮らしの中にいかに木が密接に関わっていたという事の証だと思います。 |
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| 私の記憶が間違っていなければ、確か小学生の夏に、「パ・リーグのクラウンライターが西武鉄道に身売りして、西武ライオンズという名前になって、そのマスコットキャラクターを手塚治虫が描く!」という話をして盛り上がった事を覚えています。プロ野球を生で観たこともありませんでしたが、野球の事が大好きで、手塚漫画が大好きだった私にとってとんでもなく嬉しい出来事でした。大好きだった田淵幸一が電撃トレードで西武に移った事もあり、それからずっとセは阪神タイガース、パは西武ライオンズが御贔屓。なので愛媛には走っていない西武バスに乗れるだけも嬉しい。 |
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思えばその後、大学生になって就職の事を考えていた際にもよく読んでいたのが西武グループの総帥・堤義明の本。時はバブル真っただ中で、その最先端を走っていたのが、西武グループでした。異母兄弟である兄・清二が率いる創り出したセゾン系ともセゾン文化とも呼ばれた新たな文化創造ビジネスモデルは煌びやかでまばゆいばかり。一方の弟・義明は万座や苗場に次々とスキー場を作るなど多角的な観光事業を展開して当時、フォーブス誌の世界長者番付で1位にも輝きました。新しい消費文化の創造なんて言葉に痺れて、こんな仕事がしてみたいと思っていたものです、真剣に。 |
| 田舎の大学生もすっかりのぼせ上がってしまっていて、当時沢山出版されていた西武王国成功の秘密的な本も読み漁りました。さすがに仕事となるとセゾンの世界は自分とは縁遠いと理解していましたが、観光事業の本ではかなり刺激を受けました。特に、義明氏がスキー場を作る際になるべく木を伐らないように、自然の木を活かした形でコースデザインをするというエピソードは(まあ今にすれば、バブルという時代ならではの発想ですが)、私に薄っぺらい環境意識を植え付け、堤義明をますます神格化させていったのです。 |
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ほどなく自分の能力を悟り、夢から覚めて現実というモノを知るのですが、それでもその頃に読み漁った西武王国の物語は私の中に、ささやかな灯りをともしてくらました。その頃はまさかそれからバブルが弾け、栄華を誇った西武王国が崩壊しようとは夢にも思いませんでした。そうやって一代で王国を築きながらも時代とともにビジネスモデルが通じなくなり王国が崩壊する話は枚挙にいとまがありませんが、この仕事に就いてからは余計に、ダイエーの中内㓛やヤオハンの和田一夫などの激動の人生に惹かれるようになり、私の中の眠れる何かが目を覚まし始めたのです・・・ |
| 昨日の続きですが、そういう事もあるのと、来春からは長女が就職して家を出るのと、春からは双子も高校3年生になって受験で慌ただしくなりそうなので、人手があるうちに皆で本格的な庭の手入れをすることになりました。いくつか大きくなり過ぎた木は今のうちに伐ってしまうことに。息子が植えたクヌギも残念ながらそのリストに入ってしまいました。さすがにいくらモッタイナイを信条としているとはいえ、庭に植えた木を用材として無限ループをするほどに広い庭ではないので、息子の了承を得て決断。 |
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拾ってきた小さなどんぐりがわずか12、13年でここまで大きくなりました。特別あつらえの土でも何でもないので、もっと環境さえよければ更に大きくなっていたことでしょう。わずか10数余年とはいえ、我が家の庭に根を張って、ひとつ敷地の中で家族とともに生きてきたクヌギに敬意を表し、チェーンソーでの秒殺ではなく、手鋸での伐採をさせていただくことになりました。チェーンソーが故障中だったからというのもありますが・・・。息子とふたりで家庭内林業伐採開始! |
| 樹齢10数余年といえどもうちの庭で命を育みし者。伐ったとて無駄にはしません。梢のほうは輪切りにしてイベントでネームプレートに使い、少し太いところは輪切りのコースターに。直径150㎜程度の元玉は、芯を避けて製材してみて、『森のかけら』あるいは、育ての親(?)である息子のために何か記念になるモノを作ってやるつもりです。後から使いやすいように枝を払って長さをつまえて、30分ほどで伐採終了。伐った幹の切り口をしげしげと眺める息子。 |
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ほぼ自分と同じくらいの時間を生きたクヌギに対して感慨深そうに木を見る息子。年輪を数えて、若いくせに重たいとぼやいていました。その後落ち葉も片付て掃除をしてみると、落ち葉に隠れるようにそのクヌギのどんぐりがいくつか見つかりました。イベントで使うのでほとんど拾い集めていたのですが残っていたようです。またこれここに埋めとこうかと息子はいたずら笑いしていましたが、もしもうまく芽吹いてそのクヌギがこれぐらいになる頃には私も60歳後半かあ・・・ |