森のかけら | 大五木材


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ある日曜日、早朝から息子の部活の試合の送迎で宇和島市へ。朝からの試合という事で朝の8時前に到着。試合後にまた迎えに来ることになったので、それまで時間をつぶすことになり、今まで行ってみようと思いながら機会がなかった『天赦園(てんしゃえん)』に向かいました。ちょうど8時から開園だったので、そのまま中へ。天赦園は、宇和島藩七代藩主、伊達宗紀(むねただ)が隠居の場所として建造した池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園です。伊達宗紀は、かの独眼竜・伊達政宗の血を継いでいます。

愛媛以外の方だと、なぜあの独眼竜の子孫が愛媛に?と思われるかもしれませんが、伊達政宗の長男・伊達秀宗は側室の子供であったため、家督を継ぐことが出来ませんでした。かの大坂冬の陣の際に、父の政宗と共に参戦し、その武功に対して徳川家康から伊達10万石を与えられ、秀宗が初代藩主となりました。その七代目の藩主が伊達宗紀です。それが今からおよそ400年前の1615年のこと(元和元年)。幼少の頃から豊臣や徳川の人質として過ごし、長男として生まれながら宇和島10万石に転じられた宗紀の心情いかばかりか。

その秀宗から数えて七代目の藩主が伊達宗紀で、宗紀は長寿で「百歳長寿の大名」と知られていますが、その晩年の隠居場所として建造したのが天赦園です。名前の由来は伊達政宗が晩年に詠んだ漢詩の「馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん
」の一節「天の赦(ゆる)所」から命名。ここからは余談ですが、その宗紀は後継者に恵まれなかったので、養子を迎えたのですが、それが後の八代目藩主、伊達宗城(むねなり。この宗城が進取気鋭の人物!

ちなみに政宗公の漢詩の意味ですが、「馬上少年過馬上少年過ぐ…馬に乗って戦場を駆け巡っているうちに少年時代は過ぎ去って行き)世平白髪多(世平らかにして白髪多し…世の中が平和になった今、頭には白髪が目立つようになった)残躯天所赦(残躯天の許すところ…天が許してくれた老い先短いこの身体)楽是如何(楽しまずして如何せん…楽しまなくてどうするのか)。」つまり若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世の中が平和になって自分にも白髪が増えた。天が与えてくれた余生を楽しまずしてどうしようか、という内容だそうです。伊達で鳴らした独眼竜、粋でございます!

伊達宗城を迎えた宇和島藩は、わずか10万石という小藩ながら、殖産興業と富国強兵策を藩内に実施するなど宇和島の発展に尽くしました。進歩的な考えを持っていた宗城は、当時思想犯として幕府から目を付けられていた有能な人物たちも宇和島に招き入れて庇護していました。そのうちのひとりに、高野長英がいます。高野長英は医者・蘭学者で、かのシーボルトの鳴滝塾で蘭学を学び、その一方で兵書の翻訳や砲台の設計なども行っていました。余談ながらシーボルトといえば、『栂(ツガ)』の学名にその名が冠されています




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