森のかけら | 大五木材


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甲子園記念館』は、同球場を本拠地とするわが愛しの阪神タイガースに関連する展示物も多いものの、同時に同球場が舞台となる高校野球や大学アメリカンフットボール(甲子園ボウル)などの関連物なども多数展示されています。記念館の2階に上がると、まずはその高校野球関連ブースがあります。本来、部活動の一環であり、他の部活動と同じでなければならないはずの野球部が、特別扱いされる風潮に対して、高校生の頃から大いなる不平不満はあったものの、観ること自体は決して嫌いではありません。


思うところはあるものの、とりあえずそれは脇に置いといて展示物に集中。高校野球に疑問を持つ前(つまり中学時代頃まで)は、高校野球の大ファンで、その頃は今のように高校野球関連情報が充実していなかったので、田舎にいても得られる数少ない情報誌『朝日グラフ』を、文字通りページが擦り切れるほど読み込んでいました。当時はまだ今ほどに情報が過剰に飾られていなくて、それぞれの選手や学校の背景などの情報も少なくて、シンプルに試合に集中して楽しめていたように思います。

こちらは、1948年(昭和23年)の第30回大会で二連覇した時の小倉高校(福岡県)が使用していた優勝記念バット。その前年に旧制小倉中学として初優勝し、初めて優勝旗が関門海峡を渡ったということで、歴史の重みが傷だらけのバットから伝わってきます。何しろ終戦が1945年で、高校野球が再開されたのが1946年の事。その時の大会は、甲子園球場はアメリカの占領軍に接収されていて、使うことができずに西宮球場で大会が開催されたという時代。日本中が貧しく、バットどころか食料さえままならぬ厳しい時代のことです。

ユニフォームを作るお金もなくて、戦前のものをまねて選手が自分で作ったり、スパイクも無くて普通の靴にサッカー用の靴底を縫い付けて使っていたそうで、バットもチームに2,3本もあれば良いほうだったという時代背景を考えれば、このバットがいかに貴重なものであるのかが分かります。ちなみにこちらは、甲子園の歴史を振り返るコーナーで展示されていた、1939年に甲子園球場で開催された戦車大展覧会の様子。今、高校野球やプロ野球を楽しめるのはこういう過去があったからだと思うと、バット1本にも感慨深いものがあります。

歴代の優勝校のユニフォームなども多数展示してありましたが、やはり愛媛県人として目が行くのは愛媛の高校。夏の大会で優勝5回、春の選抜で優勝2回の合計7回の全国制覇、夏・春合わせて40回を超える出場(夏26回、春16回)を誇り『夏将軍』の異名をとる松山商業のユニフォームも展示してありました。甲子園では通算80勝をあげて、高校野球史上で唯一、大正・昭和・平成の各元号下で全国制覇を果たしている伝統校ですが、最近はすっかり私学に押されて影が薄くなっていて復活が望まれます。




今更ながらですが、2016年6月半ばの話です。今年も、一緒に『誕生木 12の木の物語』を作っている神戸の『住空間設計Labo』(渡辺喜夫社長)さんからチケットをいただき、弊社の井部君とふたりで交流戦中の甲子園球場に向かいました。梅雨の最中ということで松山を出る時は生憎の曇り空でしたが、到着するころには晴れること祈って車を走らせました。ところが兵庫に入るあたりから雨が落ちてきました。数駅手まで車を停めて電車で球場に向かう頃には雨足も強くなってきました。ここまで来ての中止だけは勘弁して欲しい・・・。

甲子園球場に到着したころには至る所に色とりどりの傘の花が咲いていて、かなり中止の危険性が高まります。雨が恨めしいのは材木ばかりではないという事。よく野球が中止になった際に、他人事ながら気になるのは、その経費問題。特に年に数試合だけ組まれる地方での公式戦の場合、関係者は天気にヤキモキされることでしょう。もしも2試合との中止にでもなれば、地方球場の場合は予備日なんてありませんから興業的には莫大な損失になってしまうわけで我が事と思うと怖すぎる・・・まさに神頼み!

比べるにはあまりにも何ですが、地域の運動会ですらテントや椅子の手配やら弁当の依頼で、小雨模様だと開催するか中止にするかで相当に頭を悩ますのに、数万規模のビッグイベントになると関わる人数も膨大で、下請けの関係者の数ももの凄いことになるはず。そんなところに気持ちがいってしまうのは、住宅業界での同じような黒子的立場である納品業者の気質?!今回とて中止になればどれだけの数の弁当やら飲食品などのなま物が廃棄されてしまうのかと思うと、貧乏性の心が騒ぎます。

まあそれは置いといて、少し早めに松山を出たため試合開始までまだ時間があったので、その時間を利用して、今までは入れていなかった球場の外野スタンドの内にある『甲子園歴史館』に行ってみることにしました。年に1、2回しか球場に行かない地方の阪神ファンでありながら、しっかりファンクラブには入っておりますので、この種の情報だけはガッツリ把握しておりまして、何が展示してるかなども分かっていて、いつか行ってみたいと思っていたので、これも雨のお陰と気持ちを切り替えて入館。続く・・・




いよいよ本日が長かった北陸紀行の最後となります。実質3日の旅でしたが、過去にないほどの中身が充実した旅のご紹介に費やした日数、実に延べ84日。つまりわずか3日間の出来事を、ダラダラと3か月近くも書き連ねてきたこととなります。ちょうど仕事の事で慌ただしいことがあったりと紆余曲折もあり、時系列通りにいっていないこともありましたが、どうにか次の大阪の全国大会までには終えることが出来ました。ほとんど1年前のことなのによく覚えていたなと言われますが、きっちり書くつもりだったので記憶は定か。

まあそれほどまでに魅力的で充実した北陸の旅だったということです。それもこれも村本さん、四住さん、圓道君、角永君はじめこの旅でお世話になった多くの方のお陰です。私は20年ほど愛媛木青協に所属させていただき、確か2年目の岡山大会(その前年が、今のところ北海道での最後の開催となっている札幌大会だったので、今さらながら行っておくべきだったと悔やんでおります)からずっと全国大会に参加し、唯一石川大会だけは喪中で参加できませんでした。その時以来の北陸となったこともあり感慨もひとしお。

当初は全国大会に行っても先輩方の後を金魚のフンのようについて回るだけでしたが、少しずつ慣れもできてくると、わざわざ遠くまで行くのに、会場と繁華街だけでは面白くないと、勝手に行程の前後にスケジュールを組み入れて単独行動を取るようになりました。会団の行事なのだから会団単位で動くべきだとお叱りを受けたこともありますが、高いお金を払ってわざわざ地元と同じ顔触れで、地元に居ても交わせる話をするなんて勿体ない!という私の中のモッタイナイは暴走。大会の参加費が高いだの交通費・宿泊費がどうのこうの、何もリターンもないだの議論はきっと愛媛だけのことではないかと思います。確かにただただ先輩方の後ろについていくだけの「参勤交代」ではほとんど得るものはないでしょう。

高い出費と徒労感が残るだけかもしれません。それは誰のせいなのか?結局それは自分のせい。全国の会員が一堂に会する大懇親会の席ですら、地元会団で固まって他の会員に溶け込もうとしない、愛媛の控えめでおしとやかな性分といえば聞こえはいいかもしれませんが、商売人としてどうなのか。折角の全国ネットワークを生かさないなんてモッタイナイというところから初めた、全国大会に絡めた勝手な全国木のもの行脚が、卒業後にこうして若い会員たちと共にできたことは望外の喜びでもありました。

最後の最後の場所が、木のお店『もく遊りん』さんであったということも運命的なことのように感じております。店内中央部に鎮座ましましていたのは、長さ10mはあろうかというマツの大木。20人ものひとが一度に座れようかという巨大なテーブルに仕上がられておりましたが、これは大迫力!製作や搬入を考えれば身近なテーブルを何台か並べたほうがいいに決まってはいるものの、あえてこの一枚板の巨大テーブルにこだわったところに材木屋としての気概と矜持を感じずにはいられません。住宅だけに限らず様々な分野での木の使い方、出口探しに邁進しているところですが、こういうモノを見てしまうとやはり血が騒がずにはいられません。最後の自分の原動力に根っこにあるものも再確認できた実り多き旅でした。最後までお付き合いいただき感謝致します。




ちょうどお腹も空いてきたので、住工房を見学させていただいた後は食工房の方で「実践」させていただくことになりました。建設当初は、製材工場から発生する端材を燃料にするための手段として考えられた食工房だったそうですが、今では大きな利益を生み出す県内でも有数の人気ピザ店にまだ成長。まだかまだかと入口に並ぶ家族連れの姿に、圧倒されつつもここまで辿り着くまでのご苦労を考えると、「儲かっていいですね」などの軽口は間違っても言えません。

結果ばかりを見て、そのプロセスを考えないのはこの業界の悪癖で、何々の木が売れてると聞くとすぐにその丸太を買い込んで過剰生産して価格が暴落したり、どこどこの家具が人気と聞くとデザインを丸写しして訴訟になったりと、今植えたものの結果が数十年後に出るという気の長い仕事に立脚しているとは思えぬ日和見主義。自戒も込めてではありますが、あまりにも結果を急ぎすぎてしまったり、他社を模倣することに対する抵抗が非常に低いというのは結果がすぐに見えないことへの反動なのかも。

それはそうと、『もく遊りん』のピザはお世辞抜きに美味!腹を空かせた我ら肉体労働者にとってはピザも1枚や2枚では全く足りず。次から次へと注文を重ねて、気がつけばすっかり術中にはまってしまっていました。同行していた大成君は薪ストーブも販売していて(サンシン暖炉)、ピザ以上にそれを生み出す薪やストーブについても興味津々でしたが、少しだけ日頃の視点を大きくしてみれば、暮らしの中で木と関わりがあるもののいかに多いことか。自社の仕事や商品と関わりが無いと思うと、まるでそれが異素材でもあるかのごとく興味が減退する人もいらっしゃいますが、関わりは無くとも木という素材から生み出されるものであれば、絶対に近づけないということはないはず。

恐らくきっとどこかに接点はあるはず、なんて思ってしまうのは貧乏性の証拠なのかもしれませんが、【森のかけら】を作るようになって自分の中では随分と視点が広がってきたと思っています。薪がダメでも、ピザがダメでも、器がある、テーブルがある、椅子がある、お店の看板がある、ノベルティがある、考え方次第ではいくらでも結びつきは作れるもの。そう考えればやはり『木は無敵の最強素材』だと思うのです。それでは明日は、そんな無敵の最強素材がもっとストレートな形で活躍する場面をご紹介致しながら、この長かった旅の締めくくり。




3日前の深夜、金沢駅に降り立った時は独りぼっちであったものの、愛媛への帰途は、全国大会に参加していた愛媛木材青年協議会の若手メンバーの車に便乗させてもらって賑やかな道中となりました。自由気ままな単独行動もいいですが、同じ仕事に就く仲間と一緒の旅もまた愉しいものです。福井で恐竜博物館を観た後は、彼らの強い要望で再び石川に戻ることになりました。彼らは往路で永平寺に寄って来たらしいのですが、時間的なこともあって寄ることの出来なかった石川が誇るウッド・ミュージアムにも行ってみたいということで、福井から一路石川へ逆戻り。

私にとっては2日ぶりの『もく遊りん』。到着したのは既に昼が近かったのですが、その日は日曜日ということもあって、お店には既に人だかりが!写真は2日前に行った際、まだ開店前に撮らせていただいたもので無人ですが、当日店内はお客さんで埋め尽くされ私たちがお店を出る頃には入り口付近には長蛇の列が出来ておりました。『もく遊りん』さんのお店の仕組みについては、以前にご説明しましたが、宍喰高原の傾斜地を利用して建てられた建物は「住工房」と「食工房」に分かれていて、こちらが食工房の建物の内部。

住工房同様に店内は傾斜地に沿って階段状になっていて、それがちょうどテーブルの区切りとなっていて最上部から見下ろすと劇場のような面白い造りになっています。愛媛木青協の若手5人は、みな木にまつわる仕事に就いてはいるものの、製材所や薪ストーブ、木工、梱包材など職種が多岐にわたっていて、それぞれの立場で興味のあるところに食いついていました。私の周辺でも「木の仕事」の守備範囲がドンドン広がっているのを実感していますが、この『もく遊りん』はまさにそれが形となったもの。

勝手に中を見させてもらって、後からピザを食べて帰るつもりだったのですが、なんと我々が来ていることを聞いた主の角永善隆君がわざわざ福井から戻って来てくれました。全国大会の主催会団のメンバーって、大会前後は猛烈に忙しく、恐らく昨晩とて深夜まで他県の会員をアテンドしてほとんど寝てもいなかっただろうに本当にありがたい事です。全国大会等で来県された仲間を完全燃焼でもてなすというのは、連綿と続く会の伝統でもあります。その角永君に店内をご案内いただき、熱心に木の話を食い入るように聞き入る美しき姿。




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