森のかけら | 大五木材


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その神戸海洋博物館の館内にはさまざまな時代のさまざまな国の船のミニチュアが展示してありましたが、その中で私の目に飛び込んできたのは、私と同じ名を持つ一隻の船。1930年に竣工し、日本郵船が欧州航路で運航していた客船照国丸、その船です。『照国』のルーツは、薩摩藩第11代藩にして島津家第28代当主にあたる島津斉彬を祖とするという話はこのブログでも何度か触れてきました。 島津斉彬が50歳で急逝した後に、勅令により島津斉彬に対して『照国大明神』の神号が授けられたというものです。

その由緒正しき名は、その後歴史のいろいろな場面で登場することになります。この照国丸もそのひとつで、船の性能や大きさで欧米に大きく水をあけられていた日本の海運会社は、総トン数1万トン超えの大型船舶の造船に乗り出します。それで造られたのが、総トン数11,931トンを誇るこの照国丸です。姉妹船といわれる靖国丸と共に欧州航路で活躍しました。詳しい命名の由来までは分かりませんが、島津斉彬公と船についても興味深い繋がりがあるので、もしかしたらそのあたりに照国丸命名の由来があるのかもしれません。

私自身も自分の名前のルーツを訪ねていて知ったのですが、日本の国旗の制定にも斉彬公は大きく関わられていました。日本国旗の制定日は1870年2月27日(明治3年)となっていますが、それまでにも「白地に赤丸」のデザインは、意匠のひとつとして普及していたそうです。それを島津斉彬公や時の幕府海防参与であった水戸藩の徳川斉昭(徳川家最後の将軍・徳川慶喜の父)らが、日の丸を日本国惣船印に用いるべきだという建白書を老中・阿部正弘に提出しました。そして1854年8月2日に日本の船には日の丸の幟が使われることになりました。

つまり国旗としての日の丸は、先に船舶の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に国籍を示す旗として広く一般化したという事なのです。それは海洋国・日本が、世界へ飛び出していくのに必要不可欠な『しるし』でもありました。斉彬が日の丸を国旗とするよう進言するにあたり、徳川斉昭以外にも四賢侯と呼ばれたわが愛媛の伊達宗城(宇和島藩)や鍋島閑叟(佐賀藩)といった有力大名たちにも同意を得るなど根回しもしていたそうです。嗚呼、照国丸深し!続く・・・

 




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