森のかけら | 大五木材


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20120219 1以前このブログでも少しだけ触れさせていただけましたが、現在地元の大学生のインターンシップを受け入れていて、一緒に「産学のモノづくり」を堪能しております。その「成果」についてのご報告はもう少し先になりますが、「成果」の「出口」を求めて愛媛大学を訪れたのは先週の事。私の母校・松山大学(旧松山商科大学)と愛媛大学は、道路1つを隔てて向かい合わせに建っていて、在学中はよくお隣さんにも訪れていました。いつもお世話になっている農学部は別の敷地にありますので、20数年振りに愛媛大学の門をくぐらせていただきました。

 

20120219 2当時とのあまりの変貌振りに驚きながら、「成果の出口」を探しながらウロウロ。私たちが学生の頃とは比べ物にならないほどにお洒落で垢抜けた学生たち、「成果」はそんな彼らに訴えかえられるモノでなくてはなりません。大学の卒論で私が選んだテーマは「マーケティング」でした。それが将来何の役に立つのかどうかという事よりも、「人がモノを買う衝動」のようなモノに漠然とした興味はありました。TVCMや広告などのデザインなどにも関心があったのですが、今になって不思議な因縁を感じます。

 

20120219 3潜在的にそういうものが好きだったからこそ、眠っていたものが『森のかけら』などを作り上げるエネルギーになったのかもしれません。卒論では文献や資料を読み込むだけの頭でっかちの『マーケティングの・ようなもの』でしたが、今は「売れるモノ」を嗅覚や聴覚など五感で感じ取る本能的なマーケティング実践篇です。理論はではない私には、こちらの方が断然合っているようです。その触感に触れるモノが校内のあちこちに沢山転がっておりました。皆さん考える事は同じという事ですね。

 

20120219 4学内のショップではこういうものも販売されていました。知らないのは私ばかりでしょうが・・・。「愛」が大きい愛大どら焼き、いいノリです!こういうものを、ただ眺めて偉そうに高みから批評論する無粋な輩がおりますが、そういう事は「買ってから言え!」ということで、きちんと買わせていただきました。美味でございました。何事もアイデアだけ突出しても駄目で、裏打ちされる精度や味などがあってこその商品。さてさて我らチームの商品も最後の調味料を振るかける時期になりました。あとひと息でお披露目です。




20120218 1昨日に続いてシーボルトの話ですが、本日はわが愛媛との関わりについて。禁令の日本地図(かの伊能忠敬作)」などを国外に持ち出そうとした罪でお咎めを受けた「シーボルト事件」では、シーボルトだけではなく、鳴滝塾(シーボルトが長崎郊外に設けた木造2階建ての診療所も兼ねた私塾。)の門下生たちも連座で罰っせられました。塾生の中に、愛媛県八幡浜出身の「二宮敬作」がいました。将来を嘱望されていた彼も幕府批判の罪で、投獄される処罰されます。

 

20120218  2長崎を追われ、現愛媛県西予市宇和町に帰郷する事になります。その後宇和島藩主伊達宗城の命により宇和島藩医となり、その真摯で献身的な取り組みは地元の人々からも厚く慕われたようです。その当時に、幕府を批判した蘭学者・高野長英や大村益次郎などとの交流もあったとか。シーボルトから、娘・イネの養育を託されていた敬作は、14歳になったイネを宇和町に呼び寄せ、ここでオランダ語や西洋医学を教えます。そして彼女は日本最初に女医になるのです。

 

20120218 3そのイネは生涯独身を貫きますが、彼女は未婚のまま私生児・タダを出産します。「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けられますが、後年宇和島藩主伊達宗城により改名を指示され「高子」と名乗るようになります。その高子と愛媛にまつわるエピソードもあるようで、これは近年になって語られている話ですが・・・「銀河鉄道999」などで有名な漫画家の松本零士さんが述懐されています。理想の女性としてメーテルスターシアなど、切れ長の目で顎の細い共通の女性を描き続けたが、自分でもはっきりとは分からなかったそうですが、高子の写真を見て「この女性だ」と思い当たったそうです。少年時代に大洲市に疎開していた頃、家に伝わる古い写真やいい伝えの中で、子供心に高子の写真が脳裏に刻まれていて、その少年の記憶の残像がメーテルやスターシアの姿を描かせたのではと語られています。

 

20120218 4家にシーボルトは、敬作が九州の高山から採取したミズキの一種の高山植物に「ケイサキイアワモチ」の名を付けていますが、それほど厚い信頼を受けていた証でもあります。そのシーボルトは、日本追放から実に30年後に再来日を果たし、滝、イネと感動の再会を果たします。敬作はその後も医学の発展に尽力し、最期は皮肉にもシーボルトが初めて日本の地を踏んだ長崎の地で病に倒れる事になります。敬作の生まれ故郷・八幡浜市には彼の功績を偲ぶ銅像が建てられています(二宮敬作記念公園)。

 

20120218 5シーボルトの誕生日がきっかけで、激動の幕末に活躍した愛媛の偉人の事を改めて思い浮かべましたが、日本を愛したシーボルトが遺した足跡は他にも沢山あります。シーボルトが江戸時代に日本から持ち帰った数々の植物の子孫が、敬作の生誕200年を記念して、ドイツのシーボルト協会から贈られました。「こくさぎ」、「あけび」、「つた」の三種で、それらは『シーボルトチルドレン』と呼ばれているそうです。以前にもご紹介した『栂(ツガ)』の学名『ツガ・シーボルディー(Tsuga sieboldii)』は、シーボルトを讃えての事。その栂の木を利用して作られているのが、こちらの『土佐栂フローリング』。

 




20120217 1本日17日は、かの有名な植物学者シーボルトの誕生日でした。シーボルト、誰でもその名は学校の授業で聞いたことがある事でしょう。実名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)というとんでもなく長い名前で、「シーボルト」は英語または日本語の綴りであり、彼はドイツ人なので正確には「ジーボルト」と呼ぶのが正しいのだとか。ここでは通り名のシーボルトで通しますが、彼の生まれたのが1796年の2月17日

 

20120217 2シーボルトは日本をこよなく愛した親日家として知られていますが、1822年にオランダ東インド会社の医師として初来日から以後7年間を日本で過ごします。その間に国内で動植物の調査に励み、当時最先端の植物学で多くの日本人医学生を教育し多大な功績を残しています。そのシーボルト、わが愛媛県とは少なからずご縁があります。長崎・出島にあるオランダ商館の医師として赴任してきたわけですが、一ヵ月後に当時17歳の「楠本 滝」に一目惚れして結婚します。

 

20120217 3その頃、長崎出島に出入りする事が出来た女性は遊女に限られていたため、表向きは彼女を遊女とカモフラージュしていたという説も。そしてふたりの間に生まれたのが「いね」。それから3年後、大事件が起こります。日本の植物や文化、風習、工芸品などを世界に紹介しようという思いで日本各地のいろいろなものを収集していたシーボルトのコレクションの中に、当時海外持ち出しご法度の日本地図や葵の紋付などがあったものですから、スパイ容疑をかけられ、哀れ国外追放される事となりました。

 

20120217 4それが世に言う「シーボルト事件」。その目的こそ異なれ、シーボルトも私と変わらぬ『真性コレクター』であったのでした!いやいや本当はスパイであったとか、陰謀だとか、その真実は分からないものの、純粋な「美しきモノへの憧れ」が収集の基準であったと思いたい。だって、その後帰国したシーボルトは、日本から持ち帰った日本原産の花「紫陽花(アジサイ」に、恋しい人の名『オタクサ』(お滝さん=オタキサン=オタクサン=オタクサ)を付けたぐらいの人なんですから。更に明日へ

※シーボルトはアジサイにハイドランジア・オタクサという学名を付けましたが、それ以前に違う学名を命名・発表していた人がいたので現在では使われていないという事です。




20120216 1今晩は地元の公民館で、人権集会があり出席させていただきました。今年の公民館分館主事のおつとめも残すところあとわずか。何事も終わりに近づけば、要領を得て何だか寂寥感を覚えたりするものです。集会そのものは、松山市役所の人権啓発課から講師をお招きして、分かりやすく身近な人権について勉強させていただきました。各地で講演されていらっしゃるという事でしたが、流暢なトークで1時間半弱があっという間。ただ一方的に話すだけでなく、聴衆参加型の講演はさすがプロ!

 

20120216 2その中で、「トリック・スター」という頭の体操がありました。ご存知の方も多いと思いますが、点線に沿ってイラストを切り離し、2頭のロバに、2人のジョッキーをうまく乗せる方法はあるか?という問題です。紙を折り曲げてはいけません。私は元来物事を斜め読みする人間ですので、こういうひねりの効いたクイズは得意だと自負していたのですが、頭が硬くなってしまっています。最近「放電」し過ぎて中身が空っぽになっているようです。ちょっと足踏みしていたようですのでまた走り出します!

 

20120216 3この答えはしばらく考えていただくとして、会場となった地元平田町の公民館は、地方分館の割には結構立派で大きな建物です。その2階の畳敷きの部屋が会場となったのですがで、ここでいつも気になっていたのが床の間に掛かったこちらの額。そこに書かれた四文字熟語の意味は分からなくとも、最後に記された名が「大平正芳」と読める事だけは分かっていました。てっきり複写か何かだと思っていたら、平田町の方で大平元総理と面識のある方がいらしたそうで、本当にご本人に揮毫(きごう)したいただいた本物だとか!

20120216 4第68代の内閣総理大臣大平正芳さんは、佐藤栄作総理の後継総理争いで、三木武夫、田中角栄、福田赳夫の三氏と並び「三角大福(さんかくだいふく)」と称され、激しい政争の末総理の座を射止めながら、総理現職中に亡くなられるという悲運の方でした。昔は、国会答弁の際の「アー、ウー」という口癖がよく物真似されたものですが、最近その名を耳にする事は久しいです。盟友と呼ばれた田中角栄などと比べても、歴代総理経験者の中でほとんど悪口の聞こえてこない稀有な政治家だと思います。大平さんは、お隣の香川県2区選出で、四国出身の総理大臣としても特別ご贔屓です。その大平さんは、漢詩などにも造詣が深くその教養の高さは歴代総理の中でも群を抜いていたとか。パフォーマンスとは縁遠いタイプでしたが、その寡黙で誠実そうなお人柄と貫禄ある風貌から、私にとって絵に描いたような「総理大臣らしい総理大臣」でした。

 

20120216 5その大平さんの揮毫好きは有名で、よく書を残されているのは知っていたのですが、まさかここにあるものが直筆だったとかは!本人が好きな言葉を組み合わせて造語を作る事も多かったとかで、これもその1つで、「任怨分謗(にんえんぶんぼう」と書いてあるようです。「任怨」とは「何か思い切った新しい仕事をやる時には、きまってだれかの怨みをかう。だが、そうした怨をいちいち気にしていたのでは、とても新規事業はやりとげられない。敢えてその怨を受けよ。中傷の火の粉を恐れるな。」の意。「分謗」とは、「いったん志をともにした以上は、一心同体となってその怨を分けて受ける気概がなければならない。」という意味だとか。この言葉、今の政治家の皆さん胸に刻んでいただきたい。政治家が口にする(文字に著す)信条に『責任と覚悟と威厳』があった時代の名残。




20120215 1映画の公開前にアップしないと後悔しそうで、注意していたのですがすっかり出遅れてしまいました!早くに情報を掴んでいたにも関わらず、愛媛の地での劇場公開がないという事でうっかり封切り日を失念していました。今のところ、松山では劇場公開の予定が無いようですが、どうにか松山でも公開していただきたい(自分で働きかけねばなりませんね、これは!)ところです。その映画とは、宮大工・西岡常一棟梁のドキュメンタリー映画大工 西岡常一の遺言 鬼に訊』。鬼に訊くしかないでしょう!

 

20120215 2住宅産業に携わる人なら知らない人はいないであろうビッグネーム「西岡常一棟梁」。私ごときがその名を口にする事など憚(はばから)れるほどのお方。住宅産業以外の方でも、国宝・法隆寺薬師寺西塔の再建を手掛けた棟梁と言えば、学校で教わった事を思い浮かべられる方もいるのではないでしょうか。西岡棟梁は、明治41年に代々法隆寺に仕える宮大工の家に生まれ、日本の誇る数々の歴史的寺院建築の復興や再建に棟梁として携わられ、平成8年に86歳で鬼籍に入られました。ご健在の頃から数多くのメディアで取り上げられ、その一言一句、一挙手一投足が生きる伝説と化していました。テレビやドキュメンタリーでそのお姿をよくお見かけしましたし、西岡棟梁の著書を読み漁った時期もありました。

 

20120215 3西岡棟梁の著された本は、編集者に口伝で語られ、テープ起こしして活字にまとめられたものも多く、難しい専門用語を避け、実に平易な言葉使いで噛んで含んで子供に諭すような穏やかな物言いで書かれているので、建築の知識のない方でも受け入れやすく読みやすい本ばかりです。本物とは分かりやすく誰にも理解できるもの、なんですね・・・しみじみ。そのお仕事ぶりもまさに「口伝の世界」。まさに「鬼」となって宮大工の高等技術の伝統と継承をに生涯を捧げられました。

 

20120215 4それは宮大工や落語の世界などごく一部の限られた世界のしきたりではなく、 「形」を伝えるのではなく「心」を伝えるという、全ての事柄に当てはまる根源的な課題でもあります。しかし当時駆け出しで、桧も杉も見分けがつかないようなど素人の私には、その言葉の奥に秘められたものづくりの極意や家造りに携わるものの心得など、行間を読み込むだけの力があろうはずがなく、ただただ言葉を目で追うばかり。20数年材木屋をやって、この歳になって著書を読み返してみて、ようやくそのメッセージが少しは理解できるようになりました。「千年の檜には千年のいのちがあります。建てるからには建物のいのちを第一に考えなければならんわけです。そんなことしたら木が泣きよります。」何十年時が経とうとも、時代を超え世代を超え、我々木を扱う者が心に留めておかなければならない言葉の数々。

 

 

20120215 5そんなことしたら木が泣きよります。」己への戒めとしてよく使わせていただいております。西岡棟梁の木に対する姿勢はおよそこの言葉に集約されるのではないかと思います。木に対して恥ずかしくはないか、木に対して真摯であるか。自然素材が見直されるようになった今だからこそ、噛み締めなければならない言葉だと思います。そんな西岡棟梁の生前の姿を追ったドキュメンタリー映画が全国のアートシアター系劇場で2月4日より好評上映中です。この近くだと広島(映画館の良心)サロンシネマ。海渡るしかないか・・・。




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