森のかけら | 大五木材


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再び6月に福井県で開催された『日本木青連全国大会』の際の金沢・福井の旅の話の続き。既にこのブログで1ヶ月以上を費やしていますが(実際は3日間の事、正味は2日)、見どころ満載の旅でしたのでなるべく詳しく書こうと思っていたら、過去最長篇シリーズとなっています。これでようやく折り返し。現在位置はまだ金沢市内で、『能登ヒバ普請の金沢城を出て、これから三十間長屋を横目に(さすがに時間がなくてここは端折らせていただきました)『緑の心臓』とも呼ばれ本丸園地へ入ろうというところからです。

今回、楽しみにしていたことのひとつは、緑豊かな金沢城公園に行くことでもありました。なにしろ金沢城公園とその周辺の市街中心部の緑地には多数の500種を越える植物があるのですが、周辺の緑地などともつながり、市内に張り巡らされた用水路や街路樹によって生物の移動を可能にしていることから、心臓から血液が体内に送られる様に見立てて『緑の心臓』と呼ばれているのです。ここでどれぐらいの『森のかけら』になる前の元の姿を何種類カメラに収めることができるのか、それは私にとって重要な問題なのです。

前田利家が築いた金沢城は、慶長7年(1602)に落雷によって炎上し、その炎は火薬庫にまで引火して本丸はほぼ炎上してしまって、その威容は二度と見ることはできなくなりました。以前にこのブログで触れた、その名前通り鉄板を張った扉がつけられていた『鉄門(くろがねもん)はその本丸の正面にあったらしいのですが、大火で焼失し今では石垣しか残っていません。石垣だけとはいえ、その名前に惹かれていたのですが位置関係がよく分からず進んでいたら偶然その前を通りかかりました。鉄門跡を抜けるといよいよ本丸の森

こういう公園がありがたいのは、道筋の主要な樹にネームプレートが付けられていること。恥ずかしながら材木屋であっても、立木はほとんど分かりません。小売りの材木屋に来る頃には、葉も枝もなく、中身が板や角に挽かれた状態になっていて、森で立っていた頃の姿は見る影もありません。なので驚くぐらい立木の見分けが出来ません。最近地元で丸太から仕入れたりする機会が少しずつ増えてきて、ようやく一部の樹については樹皮とかで違いが分かるようになってきたもの、決定的に知識が足りません。なのでこういう機会は貴重です。




 
昨日も書きましたが、金沢城を訪れる前(正確には改修された菱櫓を見るまで)までの私の『能登ヒバ』に対する認識は、津軽から『青森ヒバ』の苗木を持ち込んで移植した(現在では、もともと能登に自生していたという説があるようですが)ものなので、「天然」の青森ヒバに比べると、まだまだ若い「養殖」というようなイメージがありました。それは、それまで弊社で取り扱わせてもらっていた能登ヒバがすべて大きな節のあるフローリングやパネリングだったことに依るものです。

鳳至木材さんの会社を訪ねる前、以前にお世話になっていた能登の製材工場では無節の柱や板が挽けるような大きな原木を挽いていなかったので、菱櫓の中に使われていたような立派な板が挽けるとは夢にも思ってもみなかったので、勝手に自分の中で能登ヒバの可能性を小さくしていました。けれど誤解があるかもしれませんが、決して「養殖」が悪いとか、下に見ていたというわけではなくて、それはそれぞれの地域特性というか「個性」という感覚。それは愛媛の木材が置かれた位置に似ているかも。

かつてヒノキの生産量日本一を誇った森林王国・愛媛ですが、全国レベルの供給が可能という森林資源を背景に持ってはいるものの(平成16年は、岡山・高知に次いで第三位)、他地域のようなエッジの効いた特徴があるわけではなく、業界におけるポジションとしては決して高くはないのが実情。だからといって悲観するつもりはなく、従来と同じ土俵で色分けするのではなく、別の特徴やら使い道(出口)で際立てばいいのだと思います。中途半端に中道を行くよりは、とにかく良くも悪くも振り切れることが肝心かと

城のような、ある意味木材にとって王道ともいうべき用途を見れば見るほどにますます、そっちの思いが強くなる天邪鬼的性格。ところで城といえば、愛媛でもおよそ3年をかけて平成16年に大洲城の天守が復元されましたが、使用された木材の総量は450㎥(ちなみに金沢城は1,000㎥)、木材費用は13億円、延べ床面積は140坪。重層を支える梁は110本に及び、丸太の直径は3尺近いモノを使ったそうですが、さすがにそれだけの巨木となると地元だけでは調達できず、木曽ヒノキが使われました。

何度か大洲城には行ったものの、今回金沢城の雄姿を見て、もっと地元のモノにもきちんと接していかねばと思った次第。近すぎるゆえに気が付かないということもありますが、せめて愛媛に来られたお客さなにある程度は説明できるようになっていねばと、地元金沢の事を誇らしく語られる金沢の方々の話を聞いていて強く思ったところ。さて、これにて金沢城のお話しは終了。この後は、金沢城公園に移動してその後、21世紀近代美術館で長かった石川県篇も最後となり、いよいよ場所は隣の福井県へと移っていくことになります。まだまだ続く・・・




昨日、『七木の制』の話を書きましたが、こういう風に藩が伐採を厳しく管理して制度化していたというと、すぐに『木曽五木(きそごぼく』の事が思い浮かびます。今更説明するまでもないでしょうが、木曽五木は江戸時代に尾張藩によって伐採制限された留山制度のことで、その5種はヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラのいずれも常緑の針葉樹。『木一本、首一つ』と言われるほどに厳格な政策でしたが、更にクリマツカラマツケヤキトチカツラにも保護指定されました。

木曽五木に、ケヤキを付け加えて『木曽六木』とすることもあるそうですが、いずれにせよそういう厳しい政策のお陰でこういう立派な城が築かれたのでしょう。金沢城は新幹線の開業に合わせて復元工事が進められていて、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓などが見事復元されたのですが、その工事全体でおよそ1,000㎥(5,330石)にもなろうとする膨大な木材が使われたということです。1000㎥といっても分かりにくいと思われますが、一般的な家だと40~50軒分に匹敵するとんでもない量です。

菱櫓の中に入ると、そこで使われた木材の種類が明示されていましたが、主に使用されたのはヒノキ能登ヒバマツスギ米ヒバ(イエローシーダー)。さすが国産材だけではこれだけのボリュームを支えるだけのサイズと品質の木を揃えるのは難しかったようで、外材も含まれていましたが、それでもその7割は地元の石川県産材でまかなわれたということですから、能登の森の木材供給力恐れ入るばかり!能登の鳳至木材(ふげし)さんもこの建物には相当な木材を収められたとの事でした。

鳳至木材さんの事務所でも菱櫓の模型を見せてもらいましたが、ここには更に大きな模型が展示してありました。この模型の材料だけでも結構な量になりそうです。愛媛に居ると、『能登の至宝・能登ヒバ』は自分が注文でもしない限り見ることも触ることもありませんが、昨日からずっと能登ヒバの原木やら製品を見ていたので、かなり感覚が麻痺していましたが、それにしても一般住宅に材料を収めていたら生涯見ることもないだろうと思われるスケールの材に圧倒されまくり!

長い回廊の床板には広幅の一枚板の『能登ヒバ』がこれでもかというほどに使われていましたが、職業柄これを取るのにどれだけ大きなな原木が、とてつもない量で必要だったのかを想像すると、小心者の私としては眩暈がしそうになります。鳳至木材さんはこういう用途での製材に慣れていらっしゃるのでしょうが、それにしてもほとんど無節か、あっても小さな節がある程度の能登ヒバが延々・・・。私が今まで認識していた能登ヒバの概念が根底から覆されました。金沢城の木遣い、次元が違い過ぎる!!

※補足解説・・・ この模型は総棟梁が作りました。県知事を説得して地元大工が大工仕事をゼネコンから分離発注出来たきっかけになりました。ちなみに当社の青森ひば10石ぐらい使いました。〔株式会社ムラモト 村本 喜義社長〕




 
もともと城マニアとか城好きといわけでもないのですが、城ってなぜか意味もなく高揚してしまいます。それは職業柄のことだからと思われるかもしれませんが、端材からものづくりを考える【森のかけら】を作っている弊社で扱うような木材と、城造りに使うような木材は根本的に違います。サイズも樹種も乾燥具合も品質もまったく別物。むしろ私としては、本物の城に納品するよりは(まあ、実際にそんな名誉なこともあり得ないでしょうが)映画のセットとかに使ってもらう方が嬉しかったりするのですが・・・。

映画製作の盛んな地域ならまだしも、映画のセットにもそれなりのルートがあるでしょうから、そのご縁も難しいでしょうし、映画の城って最後に燃えてしまうことも多いので、折角収めた木材が燃えるのを複雑な気持ちですが・・・。まあ、こういうのを捕らぬ狸の皮算用というのでしょ。燃やすのだからコンパネやベニヤの張りぼてでもいいのかもしれませんが、無垢の木材とベニヤでは燃えた時の煙の色や勢いが違うので、燃える場合はそれなりに無垢の木も使っているのだと思うのですが実際はどうなのでしょうか。

まあ、そんなことまでこだわらなくとも今時CGでどうにでも処理できるし、あくまで物語の背景の一部に過ぎませんのでそこまで考える必要もないのかも。それにしても金沢城に使われている部材の立派なこと!度重なる大火で何度も焼失しては建て直されたそうですが、その都度桁外れのサイズの木材が求められてきたのだと思います。そのすべてが加賀の国でまかなえたものなのか、他所から引っ張ってきたものなのか分かりませんが、先に訪問させていただいた能登なども重要な供給元であったはず。

木造住宅は1軒でも多様なサイズの木を消費する重要な『森の出口』のひとつですが、城造りになるとその量は膨大なものになります。そのため、城を造るためには良質な材を生み出す豊かな森が必要になります。ここ加賀藩では、城造りや屋敷造営に必要不可欠な7つの樹種に対して、伐採を禁止する『七木(しちぼく)の制』という条例を敷いていました。7つの樹種は何度か変更されたそうですが、最後に選定された慶応3年(1867)の記録によると、マツ、スギ、カシ、ケヤキ、ヒノキ、ツガ、カラタケの7つ。

初めての条例発布から最後まで選ばれたのは、マツ、スギ、ケヤキの3種で、他にクリキリ、ウルシなどは時代時代で変更されたようです。争いが終わり平穏な時代が続くと本格的な町造りが復興し、木材の需要が高まることで、過剰な伐採を制限する意味と、山の荒廃を防ぐ目的もあったと思われます。そういえば、昔はよく『天領ヒノキ』とか銘打って、かつて天領であった事を高らかに謳った商品もよく流通していました。『七木の制』なんて、今だと逆に使えそうなキーワードに思えてしまうのは不謹慎・・・。




 
荘厳なる姿を留める金沢城ですが、明治時代になると他の城同様に陸軍の管轄となり軍事施設として使われるようになります。もともと戦をするための建物ですが、時代を超えて戦闘拠点として使われます。戦うための城は、しっかりと武装してあり、その細工は随所に見られます。金沢城の屋根瓦には、木で作った型の上に銅を含んだ鉛をコーティングした鉛瓦』が使われていますが、いざという時には鉛を溶かして弾薬として利用するため。この瓦が使われているのは日本では金沢城だけだそうです

そのため屋根瓦が白っぽく見えて、遠くから見ると屋根に雪でも積もっているかのごとく銀色に輝き、美観重視のお洒落な城のように感じます。銅が含んだ鉛を使うことで強度も増し、酸に腐食されにくくなるという実用性も備えています。そういう様々な工夫と技術が施された金沢城も時代に翻弄され、戦後は金沢大学のキャンパスとなり、現在では金沢城公園としてようやく平和の象徴、いま流行りの言葉でいえばレガシー(遺産)として市民の憩いの場となったようです。

しかし門扉は、白壁の上品な佇まいからはかなり違和感のある造りで、戦うための「準備」に男子の戦いの本能が刺激されます。写真で見たことはあったものの、実際に見てみるとかなり無骨。門扉や柱、梁などにはビッシリと厚さ3㎜の鉄板(帯鉄)が鋲で止められていていかつさが半端ではありません。敵からの防御を高める目的の装飾らしいのですが、これも非常時には溶かされて弾薬などにするつもりだったのでしょうか。この異形ともいえる鉄が巡らされた門扉を見ていると『くろがねの門』という言葉が浮かびます。

昭和40年代世代男子としては、『くろがね』というと、「空にそびえるくろがねの城~♪」という、『マジンガーZ』のテーマ曲を思い起こさずにはいられません。金沢城には実際に『くろがねの門(鉄門)』と呼ばれる門が実在したそうで、慶長(1600年前後)の創建時には、本丸の正門にあったものの、宝暦の大火(1759年)で櫓とともに焼失してしまいます。鉄板を貼った扉が貼りつけられていたことが名前の由来と言われています。う~ん、見どころが多すぎてなかなか先に進むことができません・・・。




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