森のかけら | 大五木材


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戦艦・三笠は、日清戦争後にロシアに対抗すべく軍拡を進めた日本海軍が、イギリスのヴィッカース社に発注して、イギリスの造船所で建造された軍艦です。そのためマストや煙突に帆船の名残が見られます。更にイギリス海軍の伝統を受け継ぎ、甲板やキャビンにはふんだんにチークが使われました。三笠という名前は、奈良県にある三笠山にちなんで命名されました。三笠の名前を有名にしたのは、日露戦争の大きな転換点となったと言われる日本海海戦での活躍ぶりでしょう。

その日本海海戦で日本海軍連合艦隊の旗艦をつとめていたのが三笠で、その三笠にはかの連合艦隊司令長官の東郷平八郎が乗り、戦闘の指揮をとっていました。「皇国の興廃この一戦にあり」を示すZ旗(ぜっとき)が掲げられ、ロシア帝国海軍のバルチック艦隊との間で繰り広げられた激しい戦闘は、日本側の勝利に終わり、一躍三笠の名を日本に轟かせたのです。その三笠は、その後多くの戦争を経験しながらも奇跡的にその姿をとどめ、現在は横浜の三笠公園内に保存されています。

建造当時にチークが使われていた甲板は改造され、そのほとんどがダグラスファー(ベイマツ)に貼り替えられ、わずかに当時の幅広のチークが残っていて当時の面影を伝えています。さて、三笠が活躍した時代から歳月は流れ、太平洋戦争が勃発。日本海軍が命運を賭けて巨大戦艦大和建造に踏み切った昭和12年頃になると、日本の財政は逼迫し、海軍としては高価なチーク材の使用については二の足を踏みました。その当時からチークは高級材の地位を揺るぎないものだったのでしょう。

ところが、のちに連合艦隊総司令官となる山元五十六長官が、「戦艦にはチークだ」と主張し、大和の甲板にはチークが使われていたという逸話が残っています。なぜに山本長官がそれほどチークにこだわったかについては後述しますが、それはチークという木の特性を熟知していたからではの決断だったのです。しかし残念ながら銘木チークを搭載した戦艦大和はほとんど活躍する場面もないままに、1945年4月7日、鹿児島県の坊ノ岬沖の海底深くに沈んでしまうのです。




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