森のかけら | 大五木材


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紫電改展示会の植樹されている『陽光桜』を作出された高岡正明さんの事は、ここに来て初めて知ったのですが不思議なご縁を感じます。高岡さんは第2次世界大戦中に学校教員だったそうですが、戦後になって、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強いソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾原産の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて『陽光桜』を誕生させたそうです。

来館した時にはサクラの季節ではありませんでしたが、春に見事な花を咲かせている写真がSNSに数多くアップされています。その鎮魂の陽光桜を作出された高岡さんは伯方塩業の初代社長で、私は面識もありませんが、現在の伯方塩業の石丸社長は同じ町内に住んでいらっしゃていて、不思議なつながりを感じます。それと同時にかの戦争がどれほど多くの人の心に深い傷跡を残したのかと思うと心が痛みます。是非今度はサクラの季節にも来てみたいと思っています。

紫電改展示館があるのは「南レク馬瀬山(ばせやま)公園」という場所にあって、そこには「こども動物園」や「宇和海展望タワー」なども併設されています。展望タワーは円形の客室が緩やかに回転しながら地上107mまで上昇します。海抜260mからは、足摺宇和海国立公園のリアス式海岸の絶景が一望できます。この辺りは隆起海岸の断崖などが特徴的で、亜熱帯植物が生息していて南国ムード溢れるエキゾチックな独特の風景を作り出しています。

当日は天気がよかったので、恐らく上まで昇れば九州の山並みまで見えたと思うのですが、さすがにそこまでは時間がなかったので、こちらも次回にお預けです。山の形は海の中にまで続いていて、山を見れば海中の地形が分るので、どういう魚がいるのか分ると、地元の漁業関係の方がおっしゃっていましたが、特徴的な海岸景観を持つ宇和海には実に多彩な魚が生息しています。なんとその数は600種を超えるとか!魚だけでなく植物も多彩ですが、このあたりの材はほとんど集めらていないので、これからもっと注目していきたいと思っています。

 




私たちが紫電改展示館を訪れたのが平日の昼間だったので誰もいないのではないかと思ったら、駐車場に九州ナンバーの車が停まっていて、中に入ると老夫婦が展示されている資料を食い入るようにご覧になって、奥さんに何か説明をされていたので、もしかしたら関係者の方だったのかもしれません。現在、紫電改は世界に4機しか残っていないといわれていますが、日本では唯一ここ愛南町に「平和のシンボル」として永久保存されているこの1機のみということで、非常に貴重なものなのです(残りの3機はアメリカにあります)。

兵庫県の加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡地には紫電改の実物大模型が展示されているそうですが(一般公開は日時限定)、大戦中はそこに川西航空機姫路製作所鶉野工場(現・新明和工業)があり、「紫電改」など500機余りの戦闘機が組み立てられ、試験飛行を同飛行場で行っていた事から、実物大の紫電改の模型が制作されたようです。一度そちらも見てみたいのですが、現在、滑走路跡地は加西市で管理され、他の一部は神戸大学農学部の敷地として利用しているとのことで、余計にご縁を感じてなりません。

この紫電改と零戦がよく混同されますが2機は別物です。先に作られたのが零戦で、設計したのはジブリの映画『風立ちぬ』ですっかり有名になった三菱重工業堀越二郎。1940年(皇紀2600年/神武天皇即位を紀元とするする日本独自の紀年法)日本)に零戦が制式採用となったため、皇紀の末尾数字を取って零式と呼ばれるようになりました。アメリカでは「ゼロファイター」と呼ばれたことから、「ゼロ戦」の呼び名が有名になりましたが、正式名称は『零式艦上戦闘機』。

太平洋戦争初期には世界最高水準の戦闘機で,戦闘能力に優れた零戦は連合国空軍を震え上がらせたが、徐々に日本が劣勢になってくると零戦に変わる機体が必要となり、本土決戦の切り札として製作されたのが紫電改です。開発を受け持ったのは川西航空機(現・新明和)。つまり三菱重工が作ったのが零戦、川西航空機が作ったのが紫電改ということになります。私にとっての紫電改と言えばちばてつやの漫画『紫電改のタカ』。主人公の滝城太郎は松山市出身で、この343空剣部隊に編入して撃墜王となってゆく話ですが、当時はそんな背景も分らず、ただ戦争漫画としてしか読んでいませんでした。 展示館でも販売されていていましたが、この歳になって読んだら感じるものが随分違うと思います。心から合掌。更に続く・・・

展示館からは、紫電改が引き揚げられた久良湾が一望できます。今は気持ちのいい風が吹いて、鳥のさえずりが聞こえるこんなのどかな場所の上空でも激しい戦闘が繰り広げられていたと思うとやりきれない気持ちになります。紫電改の碑の隣には、元343剣部隊隊員の方が無き戦友を偲んで献上された『陽光桜』が植樹されていました。春には美しい花を咲かせるそうです。陽光桜というのは、『伯方の塩!』で有名な伯方塩業の初代社長・高岡正明さんが作出された日本原産のサクラの交雑種です。

 




ここに展示されている紫電改は、海底で発見されていた時にはご遺体や遺品も見当たらず誰が操縦していたのか不明ですが、この機がどこから飛び立ちどういう経緯で海に不時着したかは分っているようです。真珠湾攻撃の時、当時の海軍大佐源田実司令が、海軍の優秀なパイロットを全国から松山基地に集めて343空剣部隊を編成させました。昭和20年3月に呉軍港に狙いを定めて350機のグラマン機が襲撃してきました。それを迎えったのが松山基地から出撃した343空剣部隊の54機の紫電改。物量において圧倒的不利な状況の中で敢然と立ち向かい大きな成果をあげました。

その事からその後しばらく米軍は松山には近寄ることがなかったのですが、戦況の悪化に伴い部隊が鹿児島に移転すると、松山も無差別空襲を受けて大きな被害が出ました。当時世界最強の航空部隊とも言われ日本の空を守っていた精鋭部隊がここ松山にあったのは案外知られていない話です。そんな343空剣部隊が所属する松山航空基地のジオラマもここ展示してありました。そんな松山基地は現在の松山空港となっています。松山海軍航空隊の活躍については石碑や碑文に刻まれていますが、もう少し語り伝えられていい話だと思います。

松山空港の近くを走っていると、畑の中にコンクリートで出来たかまぼこ型のこういう構造物を見かけます。これは、人や装備、物資などを敵の攻撃から守るために帝国海軍が作った掩体壕(えんたいごう)という施設です。紫電改なども空爆から免れるため格納されていたすです。松山航空基地になる前は予科練の飛行場で、周辺には60基を越える掩体壕があったそうですが、戦争でほとんど消失。現在残っているのは3基ですが、そのうちの1基は松山市有形文化財に指定されています。御荘の紫電改はその343空剣部隊に所属していました。

終戦間際の昭和20年7月24日、土佐沖に進攻してきた敵機動部隊艦載機、戦爆連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。これを迎撃するために大村基地(長崎県大村市)から21機の紫電改が発進。豊後水道上空で米軍機と交戦し、わずか10分足らずで敵機16機を撃墜しました。しかしこの交戦で紫電改6機が基地に未帰還となり消息が絶えました。そのうちの1機がこの引き揚げられた紫電改だと考えられています。そのため展示館には、未帰還の6機を操縦した方全員の写真も一緒に展示されています。続く・・・




ここからがようやく本題なのですが、その旧御荘町の現場にフローリングなどを納品させていただきました。1階2階ともに無垢のフローリングを貼っていただけるというありがたい物件。久しぶりに2階への突き上げでいい汗をかかせてもらいました。作業は順調に進んで無事に任務は完了したので時間に余裕がありました。それで来るときに看板が見えて、気になっていた『紫電改展示館』に昼の休憩時間を利用して立ち寄ってみることにしました。実はここ愛南町御荘には日本で唯一残存する紫電改が展示されているのです

確か私がまだ中学生の頃だったと思いますが、この先の久良湾の海底40mから引き揚げられ大きなニュースになりました。養殖イカダのアンカーを探していた地元のダイバーの方が潜水中にほぼ原型のままで海底に沈んでいる紫電改を偶然発見して、34年ぶりに引き揚げられることになったのです。その様子がテレビでも放送されていましたが、その機体にはビッシリとフジツボに覆われていて、漫画やプラモデルで知っていた紫電改の勇壮な姿とはまったく違っていて、子どもながらにその異様な姿に衝撃を覚えました。もうあれから40年・・・

テレビなどを見て私がとても興味を持っていたので、その引き揚げの時の様子を写した写真をパネルにしたものを母が買ってきてくれて、高校卒業まで過ごした実家の私の部屋にはそのパネルを飾っていました。引き揚げられた紫電改は修復され、その後展示棟が建てられました。その話は知っていて、いつか見に行きたいとずっと思っていたのですがなかなか機会がありませんでした。ようやく念願が叶いました。その姿は神々しくもあり哀しくもあり見ていると涙が溢れそうになってきます。


綺麗に修復された姿は写真でしか見たことがありませんでしたが、実物を見るとその存在感は強烈です。錆びついて朽ちた無数の穴から、機体の薄さが分るのですが、軽量化するためにいかに苦心したかという技術力と被弾したら何も守ってくれるものがない絶望が背中合わせ。これで戦ってこいと送り出される恐怖。国を思い戦ってくださった当時の日本人の覚悟を思うと手を合わさずにはいられません。当時は世界最高水準と謳われたそうですが、安全性を否定した戦闘機の薄っぺらい機体と、水中着陸の際の衝撃で内側にグニャリとねじ曲がった4枚のプロペラには戦争の愚かさが刻まれています。続く・・・

 




昔は狭い地域で地名を表わす場合、東西南北などの方角を頭につけることが多かったので、愛媛県の西に位置する通称南予地域(ややこしい💦)の中を東西南北に分けて、西宇和郡に対する東側で東宇和郡と名付けられていたのだと思います。それが大合併によってエリアが拡大したため、小さなエリアの中では東に位置していたものが、大きなエリア内では西に位置するようになり、しかも名前に無難な方角名をつけたものですから、土地勘のない方には位置が分りづらい事になってしまっています。

小さな地域を大きな地域が飲み込んでしまって、名前だけ聞くと大きいのやら小さいのやらサッパリ分りにくくなっている例としては、お隣の「香川県高松市香川町」。私の妹が香川に住んでいるので、昔から香川にはよく行っているのですが、合併によっていま車で走っている場所が、地名だけ見ると一体どこなのかイメージしづらくなりました。エリアが妙に大きくなったことで距離感がいまだに掴めません。さて、なぜこんな話をしているかというと、先日木材の納品で愛媛県最南端の「愛南町(旧御荘町)」に行く機会があって、現場の場所を地図で確認していて感じたからです。

愛南町は、昔はその一帯は南宇和郡と呼ばれていました。そこに御荘町、城辺町、西海町、一本松町、内海村という4つの町と1つの村がありました。それが平成の大合併で 愛南町になったのです。私はその愛南町の北側に位置する野村町(現西予市野村)に住んでいましたが、南宇和郡に行ったのは数えるほどしかありませんでした。昔は完全なインドア派の人間でしたので、あまり家から出るのを好みませんでした。その頃もっと外に出てたら、多少は土地勘もついたのかもしれないと思いますが、大人になっても方向音痴でいつも苦労しています。


その愛南町の中の旧御荘(みしょう)町が現場なのですが、もうそこから車で30分も走れば県境で、その先は高知県宿毛市。御荘という地名は、王朝時代に延暦寺の荘園がこの地にあり、それをあがめて「御」を附し「御荘」と呼ぶようになったのが由来だとされているそうなのでもともと歴史と由緒ある地名だったのです。この辺りは協会が入り組んでいて複雑なのでもともと分りづらかったのですが、旧名が無くなって余計に分りづらい。城辺町、西海町、一本松町、内海村って特徴が分りやすくていい地名だったんだけどなあ・・・。まだ続く

 




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