森のかけら | 大五木材


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昨日、『七木の制』の話を書きましたが、こういう風に藩が伐採を厳しく管理して制度化していたというと、すぐに『木曽五木(きそごぼく』の事が思い浮かびます。今更説明するまでもないでしょうが、木曽五木は江戸時代に尾張藩によって伐採制限された留山制度のことで、その5種はヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラのいずれも常緑の針葉樹。『木一本、首一つ』と言われるほどに厳格な政策でしたが、更にクリマツカラマツケヤキトチカツラにも保護指定されました。

木曽五木に、ケヤキを付け加えて『木曽六木』とすることもあるそうですが、いずれにせよそういう厳しい政策のお陰でこういう立派な城が築かれたのでしょう。金沢城は新幹線の開業に合わせて復元工事が進められていて、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓などが見事復元されたのですが、その工事全体でおよそ1,000㎥(5,330石)にもなろうとする膨大な木材が使われたということです。1000㎥といっても分かりにくいと思われますが、一般的な家だと40~50軒分に匹敵するとんでもない量です。

菱櫓の中に入ると、そこで使われた木材の種類が明示されていましたが、主に使用されたのはヒノキ能登ヒバマツスギ米ヒバ(イエローシーダー)。さすが国産材だけではこれだけのボリュームを支えるだけのサイズと品質の木を揃えるのは難しかったようで、外材も含まれていましたが、それでもその7割は地元の石川県産材でまかなわれたということですから、能登の森の木材供給力恐れ入るばかり!能登の鳳至木材(ふげし)さんもこの建物には相当な木材を収められたとの事でした。

鳳至木材さんの事務所でも菱櫓の模型を見せてもらいましたが、ここには更に大きな模型が展示してありました。この模型の材料だけでも結構な量になりそうです。愛媛に居ると、『能登の至宝・能登ヒバ』は自分が注文でもしない限り見ることも触ることもありませんが、昨日からずっと能登ヒバの原木やら製品を見ていたので、かなり感覚が麻痺していましたが、それにしても一般住宅に材料を収めていたら生涯見ることもないだろうと思われるスケールの材に圧倒されまくり!

長い回廊の床板には広幅の一枚板の『能登ヒバ』がこれでもかというほどに使われていましたが、職業柄これを取るのにどれだけ大きなな原木が、とてつもない量で必要だったのかを想像すると、小心者の私としては眩暈がしそうになります。鳳至木材さんはこういう用途での製材に慣れていらっしゃるのでしょうが、それにしてもほとんど無節か、あっても小さな節がある程度の能登ヒバが延々・・・。私が今まで認識していた能登ヒバの概念が根底から覆されました。金沢城の木遣い、次元が違い過ぎる!!

※補足解説・・・ この模型は総棟梁が作りました。県知事を説得して地元大工が大工仕事をゼネコンから分離発注出来たきっかけになりました。ちなみに当社の青森ひば10石ぐらい使いました。〔株式会社ムラモト 村本 喜義社長〕




 
もともと城マニアとか城好きといわけでもないのですが、城ってなぜか意味もなく高揚してしまいます。それは職業柄のことだからと思われるかもしれませんが、端材からものづくりを考える【森のかけら】を作っている弊社で扱うような木材と、城造りに使うような木材は根本的に違います。サイズも樹種も乾燥具合も品質もまったく別物。むしろ私としては、本物の城に納品するよりは(まあ、実際にそんな名誉なこともあり得ないでしょうが)映画のセットとかに使ってもらう方が嬉しかったりするのですが・・・。

映画製作の盛んな地域ならまだしも、映画のセットにもそれなりのルートがあるでしょうから、そのご縁も難しいでしょうし、映画の城って最後に燃えてしまうことも多いので、折角収めた木材が燃えるのを複雑な気持ちですが・・・。まあ、こういうのを捕らぬ狸の皮算用というのでしょ。燃やすのだからコンパネやベニヤの張りぼてでもいいのかもしれませんが、無垢の木材とベニヤでは燃えた時の煙の色や勢いが違うので、燃える場合はそれなりに無垢の木も使っているのだと思うのですが実際はどうなのでしょうか。

まあ、そんなことまでこだわらなくとも今時CGでどうにでも処理できるし、あくまで物語の背景の一部に過ぎませんのでそこまで考える必要もないのかも。それにしても金沢城に使われている部材の立派なこと!度重なる大火で何度も焼失しては建て直されたそうですが、その都度桁外れのサイズの木材が求められてきたのだと思います。そのすべてが加賀の国でまかなえたものなのか、他所から引っ張ってきたものなのか分かりませんが、先に訪問させていただいた能登なども重要な供給元であったはず。

木造住宅は1軒でも多様なサイズの木を消費する重要な『森の出口』のひとつですが、城造りになるとその量は膨大なものになります。そのため、城を造るためには良質な材を生み出す豊かな森が必要になります。ここ加賀藩では、城造りや屋敷造営に必要不可欠な7つの樹種に対して、伐採を禁止する『七木(しちぼく)の制』という条例を敷いていました。7つの樹種は何度か変更されたそうですが、最後に選定された慶応3年(1867)の記録によると、マツ、スギ、カシ、ケヤキ、ヒノキ、ツガ、カラタケの7つ。

初めての条例発布から最後まで選ばれたのは、マツ、スギ、ケヤキの3種で、他にクリキリ、ウルシなどは時代時代で変更されたようです。争いが終わり平穏な時代が続くと本格的な町造りが復興し、木材の需要が高まることで、過剰な伐採を制限する意味と、山の荒廃を防ぐ目的もあったと思われます。そういえば、昔はよく『天領ヒノキ』とか銘打って、かつて天領であった事を高らかに謳った商品もよく流通していました。『七木の制』なんて、今だと逆に使えそうなキーワードに思えてしまうのは不謹慎・・・。




 
荘厳なる姿を留める金沢城ですが、明治時代になると他の城同様に陸軍の管轄となり軍事施設として使われるようになります。もともと戦をするための建物ですが、時代を超えて戦闘拠点として使われます。戦うための城は、しっかりと武装してあり、その細工は随所に見られます。金沢城の屋根瓦には、木で作った型の上に銅を含んだ鉛をコーティングした鉛瓦』が使われていますが、いざという時には鉛を溶かして弾薬として利用するため。この瓦が使われているのは日本では金沢城だけだそうです

そのため屋根瓦が白っぽく見えて、遠くから見ると屋根に雪でも積もっているかのごとく銀色に輝き、美観重視のお洒落な城のように感じます。銅が含んだ鉛を使うことで強度も増し、酸に腐食されにくくなるという実用性も備えています。そういう様々な工夫と技術が施された金沢城も時代に翻弄され、戦後は金沢大学のキャンパスとなり、現在では金沢城公園としてようやく平和の象徴、いま流行りの言葉でいえばレガシー(遺産)として市民の憩いの場となったようです。

しかし門扉は、白壁の上品な佇まいからはかなり違和感のある造りで、戦うための「準備」に男子の戦いの本能が刺激されます。写真で見たことはあったものの、実際に見てみるとかなり無骨。門扉や柱、梁などにはビッシリと厚さ3㎜の鉄板(帯鉄)が鋲で止められていていかつさが半端ではありません。敵からの防御を高める目的の装飾らしいのですが、これも非常時には溶かされて弾薬などにするつもりだったのでしょうか。この異形ともいえる鉄が巡らされた門扉を見ていると『くろがねの門』という言葉が浮かびます。

昭和40年代世代男子としては、『くろがね』というと、「空にそびえるくろがねの城~♪」という、『マジンガーZ』のテーマ曲を思い起こさずにはいられません。金沢城には実際に『くろがねの門(鉄門)』と呼ばれる門が実在したそうで、慶長(1600年前後)の創建時には、本丸の正門にあったものの、宝暦の大火(1759年)で櫓とともに焼失してしまいます。鉄板を貼った扉が貼りつけられていたことが名前の由来と言われています。う~ん、見どころが多すぎてなかなか先に進むことができません・・・。




 
兼六園からいざ金沢城へ。このふたつに建物は道路を1本隔てて隣同士に並んでいるので、簡単に移動できます。観光に来られたほとんどの方は、このどちらにも行かれるんだと思います。兼六園の中からも、白い城壁の一部が見えますが、橋を渡って最初に迎えてくれるのは石川門石川櫓。別名「白門」とも呼ばれる美しく気品のある御姿。朝いちばんに兼六園に行って、その流れでこちらに移動したのですが、時刻は8時30分過ぎでしたが、既に辺りには観光客が溢れ始めていました。

いちいちどれもこれも興味の湧くものばかりで、写真も撮りまくったのですが、いちいち順路に沿って説明していたのでは永遠に終わらないので、ごく一部をかいつまんでご紹介しますが、まあカメラをどこに向けても絵になる構図ばかり。堂々たる正面玄関のように見えるこの石川門ですが、本当は北にある大手門が正面玄関だとか。前田利家の時代に建てられた石川門は、その後二どの大火で焼失し、その後に再建され(1788年)230年以上もその勇壮たる姿を誇っています

その石川門の最初の扉をくぐって右に折れると、更に重厚な第二の門が現れます。敵が侵入してきたとしても勢いを鈍らせるために、通路を曲げている枡形門です。金沢城は、別名『石垣の博物館』とも呼ばれていますが、その理由はさまざまな時代に造られた石垣が綺麗な状態で現存してあるため。こちらが有名な左右非対称の石垣。向かって右側が、石を削り隙間なく積み上げた『切り込みハギ積み』、向かって左側が、形や大きさを揃えた割り石を積み上げた『打ち込みハギ積み』。切り込みハギ積みの方が時代が新しいそうです。

なぜこういう形で2つの技法が接する形で残っているのかは分からないようですが、初期は『打ち込みハギ積み』だったのが、その後の改修工事で『切り込みハギ積み』に変わったようです。こうして時代時代の城造りの足跡が残っているのは貴重なことですが、一方でどの時代の城を残すかというのも難しい問題。金沢城には天守閣がありませんが、造営後20数年で落雷により焼失。その後、天守再建の声は何度も挙がったものの、現在の金沢城は江戸末期の姿らしく、天守を作ると時代の混乱があるからとか。




特にミシシッピ州は、州内にタイサンボクが多いことから、Magnolia State(タイサンボクの州 )という愛称もあるほど。明治12年(1879)に、アメリカのグラント将軍(後の第18代アメリカ合衆国大統領、ユリシーズ・グラント)が来日した際に、夫人が上野公園に植えたことから、『グラント・ギョクラン(玉蘭)』とも呼ばれます(当時は綺麗な花にランの名を冠する習慣があった)。今では東北以南の各地で街路樹などに植えられ、すっかり日本の木の風情すら漂いますが出自は北アメリカ南部。

5~7月の初夏に花をつけ、季語にもなっているほど(泰山木の花は、夏の季語)、日本の風景に溶け込んでいて、和歌や俳句にも詠まれています。「がつちりと花を葉を持つて泰山木種田山頭火、「昂然と泰山木の花に立つ高浜虚子、「ゆふぐれの泰山木の白花はわれのなげきをおほふがごとし斉藤茂吉など俳人や歌人たちも泰山木のある風景を詠んでいます。まだこの木の材は手に入れたことがないものの、目をつけている樹はあって、どうにか入手できないものか思案しているところ。

話は戻って、兼六園のタイサンボク。ここまで書いていて間違っていたら恥ずかしいのですが、木の名札が付いてなかったのでその葉からの判断です。そのタイサンボクの根元に目をやると、根が気色悪いほどに瘤々に膨れ上がっていました。兼六園は前田斉泰(なりやす)が、万延元年(1860)に造ったのが元とされているので、明治12年(1879)に渡来したタイサンボクは、その後の整備工事で植えられたもののはず。外来樹なので、あまり重要視されていないのか、こんな奇怪な姿にも関わらず解説無し。

あるいはこれが何か特殊な状態の根なのか、病気なのか、もしかしたらこういう性質なのか、悲しいかな知識が無くてよく分かりませんが、かなりインパクトがあります。今まで見てきた整った美しい兼六園を表の顔とすると、長い歴史の中ではこういう奇特な木も育つという裏の顔もあるといえば、言い過ぎかもしれませんがこれも兼六園の懐の深さかと。もっと時間があればいろいろ探索できたのでしょうが、後の行程を考えてとりあえず兼六園はこれにて終了。明日からはお隣の金沢城に移動~。




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