森のかけら | 大五木材


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個人的には、「人は石垣、人は城」と、人材こそが大切な城であると城を築かなかった武田信玄の考え方も好きですが、男子なのでデッカイ城には惹かれます、ましてやその城がわずか3年足らずでこの世から姿を消してしまい、幻となればなおの事。どんどん妄想が膨らみ、城好きの中では、それぞれの安土城が築かれているのです。「ちょっと急いで行ってくる」なんて軽い気持ちで女子チームに声をかけて登り始めて20分以上は過ぎたでしょうか、一段一段踏みしめるように登城される観光客を何人追い越したことでしょう。結構上の方まで登って来ました。

信長公本廟(ほんびょう)」と刻まれた石碑がありました。つまり信長公のお墓という事。しかし、本能寺で自害した信長の首は行方知れずとなっているため、どういう事かとガイドマップを見れば、「秀吉が天正11年に信長公ゆかりの太刀や烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟とした」とありました。まだ少しだけ雨が落ちていて、観光客も少ない事もあり周辺は風に揺れる木々の葉音が聞こえるぐらい。そのご遺骨は無いとはいえ、さすがに本廟となると気持ちが引き締まります。これい以上中には入れなくなっていましたが厳かな雰囲気が漂います。

正月の飾りつけも掃除もしてあったのですが、これがあの第六天魔王の墓なのかと思えるほどシンプルでこじんまりとしていました。その後天下人となった秀吉が信長崇拝の象徴とさせないためにあえて派手がましいものにしなかったではなどと詮索してしまいます。ところで信長の首といえば、その消えた亡骸について様々な説があり、小説やドラマにもなっています。結局のところいずれも推察の粋を出ないのかもしれませんが、私は最後まで本能寺で傍に仕えていた黒人家臣・弥助が密かに持ち出し、二条城にいた信長の息子・信忠光秀の謀反を知らせ信長公の首を渡したという説を支持しています。

その後、本能寺に戻り光秀の軍勢と争うも、最終的に降伏します。その際に、光秀はかつて信長の同じ家臣であった弥助に対して、「奴は動物と同じで何も分かっていないから殺すまでもない。」と温情をかけたのか、あえて逃がしています。その後弥助は故郷のモザンビークへ帰ったとも言われています。本能寺で信長が自害する前に残した最後の言葉、「余は自ら死を招いたな。」は、スペイン商人アビラ・ヒロンの著書「日本王国記」に記されていますが、その言葉を聞き伝えたのがこの弥助だったのではないかと言われるもが合点がいきます。明日に続く・・・




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